外国語ができれば、国際コミュニケーションができる。

これは、半分は正しい。 でも、半分しか正しくないと思う。

タイ料理屋でちょっと面白いことがあった。

タイ語で「マイペ」と言った。 「辛くしないでね」という意味で、僕としてはちゃんと伝えたつもりだった。

ところが、出てきた料理は辛かった。

最初は、 「あれ? 通じなかったのかな」 と思った。

でも、たぶん違う。

言葉は通じていたのだ。

店の人はちゃんと「マイペ」と理解して、タイ人の感覚で「辛くない料理」を出してくれた。 ただ、その「辛くない」が、日本人の僕には十分辛かった。

つまり、問題は言葉ではなかった。

「辛くない」という言葉が指している範囲が、相手と僕とで違っていたのだ。

同じようなことが店の名前でもあった。

店の名前は「ムアンタイ」。

僕はタイ語の「ムアンガン(同じ)」のような意味なのかと思って聞いてみたが、どうも話が噛み合わない。

後から、「ムアンタイ」は「タイの国」という意味だと知った。

音は聞こえている。 単語もある程度知っている。 それでも意味はずれる。

ここが、国際コミュニケーションの面白いところだと思う。

外国語学習というと、どうしても、

「単語を知っている」 「文法がわかる」 「発音できる」 「聞き取れる」

というところまでで考えがちだ。

だからAI翻訳はゴールに見えてしまう。

でも、それはコミュニケーションの入口にすぎない。

言葉が通じても、意味が通じるとは限らない。 意味が通じても、意図が通じるとは限らない。 意図が通じても、相手がどう受け取るかはまた別である。

たとえば、

「すぐやります」 「大丈夫です」 「難しいです」 「考えておきます」

こういう言葉は、辞書で訳すこと自体は難しくない。

でも、その言葉が実際に何を意味するのかは、国や文化だけではなく、会社、業界、立場、人間関係、その場の状況によって変わる。

だから僕は、国際コミュニケーションにはいくつものレイヤーがあると思っている。

第一段階は、言葉そのものが通じること。

第二段階は、その言葉が指しているものを共有できること。

第三段階は、相手の文化や常識、前提を理解して、その言葉の意味を解釈できること。

さらにその先には、相手との関係性や立場、その場の空気まで含めて、言葉になっていないものを読み取る世界がある。

そして、どこまで必要なのかは、その人がどの世界を目指すかによる。

僕はこれを、「河川敷の世界」と「ワールドカップの世界」と呼んでいる。

そして、ワールドカップの世界の中にさらに「インサイドの世界」があると考えている。

河川敷で一緒に遊ぶなら、言葉なんてそれほどできなくてもいい。

ボールを蹴って、 笑って、 「Nice!」 と言って、 腹が減ったら一緒に飯を食う。

それで十分コミュニケーションは成立する。

むしろ、下手な外国語でも飛び込んでいける人の方が強いことさえある。

ところが、ワールドカップの世界になると違う。

契約条件を詰める。 相手の発言の意図を読む。 こちらが譲れるところと譲れないところを伝える。 相手が本当にNOと言っているのか、交渉のためにNOと言っているのかを判断する。

ここでは、単に英語が流暢であるだけでは足りない。

さらに「インサイド」に入ろうとすると、もう一段違う世界になる。

外国人の「お客さん」として丁寧に扱ってもらうだけではなく、その人たち同士の会話の中に自然に入っていく。

冗談がわかる。 皮肉がわかる。 誰が本当に決定権を持っているのかがわかる。 言葉には出ていない微妙な躊躇や不満がわかる。 本音を引き出せる。

そこまで行くと、辞書に載っている意味だけではほとんど役に立たないことさえある。

だから、

「AI翻訳が進歩すれば、外国語を勉強する必要はなくなる」

という話にも、僕は少し違和感がある。

もちろん、AI翻訳はものすごく便利だ。 これからさらに良くなるだろう。

第一段階の「言葉を別の言葉に置き換える」という作業については、人間よりAIの方が優秀になる場面はどんどん増えると思う。

でも、コミュニケーションそのものは翻訳ではない。

「マイペ」を正確に「not spicy」と訳してくれても、それで僕の口にとって辛くない料理が出てくるとは限らない。

問題は翻訳精度ではなく、

「あなたにとってspicyとはどの程度ですか?」

という、お互いの物差しの違いだからだ。

さらに、人間は言葉だけで話しているわけでもない。

表情がある。 目がある。 手がある。 姿勢がある。 声の大きさがある。 間がある。

外国語が完璧でなくても、笑顔で相手の目を見て、手を使って伝えれば、かなりのことが伝わる。

逆に、文法的に完璧な文章を無表情で読み上げても、伝わらないことがある。

僕が英語の授業でジェスチャーや表情を重視するのも、そのためだ。

言葉が足りなければ、手で補えばいい。 発音が怪しければ、表情で補えばいい。 聞き取れなければ、聞き返せばいい。

コミュニケーション能力とは、英語力の点数ではない。

自分の持っているあらゆる手段を使って、 相手との間にあるズレを見つけ、 そのズレを少しずつ埋めていく能力だと思う。

そして、これは外国人とのコミュニケーションだけの話ではない。

同じ日本語を話す日本人同士でも、

「普通」 「常識」 「ちゃんと」 「すぐ」 「高い」 「辛い」

その物差しは一人ひとり違う。

外国語になると、そのズレが大きくなるから見えやすいだけなのだと思う。

だから重要なのは、

「この言葉を英語で何と言うか」

だけではない。

「自分と相手は、同じ言葉で同じものを見ているのか」

と考えることだ。

AIは、その間にある言葉の壁をずいぶん低くしてくれるだろう。

それは素晴らしいことだと思う。

でも、壁が低くなったからといって、向こう側にいる人のことまで理解したことにはならない。

そして、ここからが教育の問題だと思う。

AIによって「正しい英文を作る」という作業の価値が相対的に下がっていくのなら、語学教育で人間が身につけるべき能力も変わっていくはずだ。

これまでの英語教育では、

単語を覚える。 文法を覚える。 正しい文章を作る。 正しい答えを選ぶ。

そういう能力が評価されてきた。

もちろん、それらが不要になるわけではない。 基礎として必要である。

でも、それだけを教育のゴールにしてしまうと、AIが最も得意なことを、人間が何年もかけて練習することになってしまう。

これから重要になるのは、その先だと思う。

自分が何を伝えたいのかを考える。

相手に伝わっていないことに気づく。

なぜ伝わらなかったのかを考える。

別の言葉で言ってみる。

ジェスチャーを使ってみる。

表情を変えてみる。

具体例を出してみる。

相手に質問してみる。

そして、相手の反応を見て、もう一度やり方を変える。

つまり、

伝える。 反応を見る。 ズレを見つける。 修正する。 もう一度伝える。

コミュニケーションそのものが、小さなPDCAなのである。

だから僕は、語学教育も「一度で正解を出す訓練」から、「伝わらなかったら修正する訓練」へ変わっていくべきだと思っている。

間違えないことを評価するのではなく、 間違えた後にどうするかを見る。

発音を間違えた。 通じなかった。

そこで黙ってしまうのではなく、もう一度言ってみる。

それでも通じなければ、別の言葉を使う。

それでも駄目なら、手で示す。

絵を描く。

AIに助けてもらう。

そして最後に伝わったら、

「なぜ今度は伝わったのだろう?」

と考える。

このプロセス自体が学習になる。

僕が授業で学生に求めているのも、英語を完璧に話すことではない。

患者さんを安心させることだ。

たとえば歯科医院なら、

“Open your mouth.”

という英文を正しく言えることだけがゴールではない。

小さな声で、無表情で、患者さんの顔も見ずに、

“Open your mouth.”

と言う学生と、

多少発音が怪しくても、 患者さんの目を見て、 笑顔で、 手で口を開けるジェスチャーをしながら、

“Open your mouth, please.”

と言う学生。

患者さんにとって、どちらが安心できるだろう。

英語の試験なら、前者でも満点を取れるかもしれない。

でも、コミュニケーションとして評価するなら、それだけでは足りない。

ここで教育の評価軸そのものを変える必要がある。

「正しい英語を使えたか」

だけではなく、

「目的を達成できたか」。

さらに、

「うまくいかなかったとき、自分で修正できたか」。

そこまで評価する。

これは英語教育だけの話でもないと思う。

AI時代に、人間が学ばなければならないことのかなりの部分が、こちら側に移っていくのではないか。

AIは答えを出してくれる。

だからこそ人間には、

何を聞くのか。 何を伝えるのか。 相手が本当に理解したのか。 出てきた答えは自分の目的に合っているのか。 どこにズレがあるのか。 次に何を変えるのか。

を考える力が必要になる。

AIを使わない教育をするのではない。

むしろAIを使えばいい。

翻訳もさせればいい。 英文も直してもらえばいい。 発音の練習相手にもなってもらえばいい。

機械に任せられるところは機械に任せる。

その代わり、そこで浮いた時間を、

考えること。 試すこと。 失敗すること。 相手を見ること。 修正すること。

に使えばいい。

テクノロジーは努力をなくすためのものではない。

不要な努力を減らして、 人間にしかできない努力に時間を使うためのものだと思う。

AIが代わりにやってくれて生まれた時間に、 人間が何もしなくなるのでは意味がない。

AIより速く翻訳する必要はない。 AIより正確に英文を書くことだけを競う必要もない。

その先で何をするかだ。

人を理解する。 新しい問いをつくる。 違うものをつなげる。 判断する。 交渉する。 説得する。 笑わせる。 安心させる。 まだ存在しないものを考える。

人間は、機械が肩代わりしてくれた分だけ、もっと付加価値の高いところへ移っていかなければならない。

そして、どこまで行きたいのかによって、必要な能力も変わる。

河川敷で一緒に遊べればいいのか。

ワールドカップの世界で勝負したいのか。

それとも、その社会のインサイドまで入りたいのか。

全員が同じところを目指す必要はない。

でも、自分がどこを目指しているのかは知っていた方がいい。

その目的によって、学ぶべき英語も、必要なコミュニケーション能力も変わるからだ。

AI時代になって、語学教育が不要になるのではない。

むしろ逆かもしれない。

「外国語を教える」という狭い意味での語学教育から、

異なる物差しを持った人間同士が、 どうすれば理解し合えるのかを学ぶ教育へ。

言葉の壁が低くなればなるほど、 その向こう側にある、もっと見えにくい壁が見えてくる。

AIは言葉を訳してくれる。

でも、 相手を理解することまでは、 代わりにやってくれない。

AIが仕事をして生まれた時間を、 人間がもっと人間にしかできないことに使う。

僕は、それがAIとの正しい付き合い方だと思っている。

ターミネーターのいない未来にするためだ。

ちなみに、こういうことを書くと、「私は○○がしたいんですけど、それは河川敷ですか?ワールドカップですか?」、と僕に聞いてくる人が必ずいるんですけどw

そんなことは知りません。これは分類ではなく比喩です。どこを目指すかを決めるところから、コミュニケーション能力です。

自分で決めてください。