今週は留学生に外部講師として日本の文化について授業をしました。日本の文化を教えると同時に、ボクにとって彼らの表情から日本を見つめる機会でもあります。

 

コンビニでアルバイトをしている学生もいるので、 日本人のお客さんの真似と言って無表情で、外国人店員がありがとうございましたと笑顔で言っても 目も合わせず、うんともすんとも言わずに帰っていく客の演技をすると、

ああそういうお客さんたくさんいるってクラス中が大爆笑になるんですよ。

 

この事実をみなさんはどう思いますか?

それが日本の文化だからそのままでいいと思いますか?

世界からは不思議と思われてますけど。

 

美しい国だと思って夢と希望を胸に日本に来て

そんな態度で接せられることによって幻滅するのは外国人の勝手なんですかね?

 

日本人は「黙ってる」つもり

でも外国人から見れば「無視された」「存在を認められなかった」それは、“心を折る”に十分な破壊力を持ってるんですよ。

そんなの悪気はない。その通り。でも、「悪気がない」からこそ最も悪質なことだと思うんですよ。

「文化だから」「みんなそうしてるから」という理由で、誰かの存在を「なかったことにしてしまう」――これは立派な構造的暴力でしょ?

その態度は、世界では“失礼”と認識されます。

 

彼らは笑っていますよ。でもそれは理解されたじゃなくて、“傷ついたけど笑うしかない”からです。

「美しい国」への期待を裏切られる瞬間こそが、最大の文化ショックになるんです。

文化の違いは「どちらが正しいか」ではなく、「どう伝わるか」「相手がどう感じるか」の問題です。

 

無言で去る日本人は、「マナーを守った」つもりでも、外国人は「存在を否定された」と感じることがあるんです。

どう伝えたかではなくて、どう伝わったかが問題であるっていうのは、逆の例でも話しました。

 

日本人は質問をされるのを嫌がるという例です。

どんなにニコニコ質問をしたとしても、相手は怒った顔で文句を言っているように受け取ってしまう。だから質問されるのが嫌なわけで、全く同じ構造の裏返しです。

 

悪気がないは言い訳にならないんです。

 

“悪気がなかった”というのは、伝えた側の都合であり、

“どう受け取られたか”が現実のコミュニケーションの全てなんです。

日本人の「善意」「礼儀正しさ」「空気を読む」文化が、

他者にとっては「怖い」「冷たい」「説明がない」と受け取られることもあるということをホストであるみなさんに知って欲しいです。

 

「相手の気持ちを考えて行動する」なんて、日本人が大好きな“お題目”だけど、それを言ってる私たちが、実際に相手の気持ちを**“受け取る力”も“想像する力”も持ってない**んじゃないですかね。

“相手の気持ち”を考えてるんじゃなくて、

“自分の中にある相手像”を想像して、自分が気持ちよくなるように行動してるだけ。自己陶酔の酔っ払い。そして自分で気づいてない。

「気持ちを考える」と「気持ちを想像したつもり」は違うんです。

本当に“考える”なら、自分の気持ちと矛盾する相手の気持ちにも向き合うはずです。

でも多くの人は、「こんな気持ちだろうな~」という**“空気の想像”**で済ませてる。その想像は、相手不在でしょ?

「相手の気持ちを考えましょう」

「多文化共生を大切にしましょう」

「思いやりを持ちましょう」

これらはすべて標語化されてしまって、何も感じない言葉になってませんかね?

 

でも、

「“ありがとうございました”と言ったのに、無言で立ち去られる」

「笑顔で質問したのに、責められたような顔でにらまれる」

こういう演技をすると「あるある」って教室が盛り上がるんですよ。

 

授業では、「日本人ってそういう人が多いから、気にしなくていいよ。キミたちが何かいけないことをしたから怒ってるんじゃないよ。安心していいよ。」って話します。

 

授業後感想を書いてくれるんです。

多くの学生が、「安心した」って感想をくれたんですよ。

ボクは20年以上いろいろな国で「外国人」をやってきました。

外国人ってね、不安なんですよ。相手が不機嫌だと自分が何かしたからじゃないかって思っちゃうんです。(まぁ20年もやってるとそのうち「うっせーバーカ!」って心の中で言えるレジリエンスがついてくるんですけど)

 

この事実をみなさんはどう受け止めますか?

 

やることは簡単です。

コンビニ(に限らずですけど)、

笑顔で

相手の目を見て

ありがとうって言う

これだけです。