俺のニューヨーク時代の最初の上司

一回りくらい上の人

 

新年の挨拶に添えて

息子さんがニューヨークに転勤になり、当時俺が住んでいたところの近くに住むことになったとの近況を教えてくれた

 

急にいろいろなことが頭の中に蘇る

 

銀行に入ると普通はまず国内の支店に配属される

 

のだが、当時国際業務、投資銀行業務の急拡大戦略を打ち出してたうちの銀行にあって

400人の総合職同期のうち、新人から国際本部、投資銀行本部に12人だけ配属になった

 

俺は米国の金利のディーリング部署に配属された

 

ドル/円の為替担当ならば、マザーマーケットは東京とニューヨークの二市場だが

ドル金利の市場は断然ニューヨークにしかない

従って

 

夜勤

 

毎晩夜中の3時4時まで

 

さすがに身体が持たない

 

当時の銀行にとって投資銀行業務は新規業務なので、銀行員生活何十年の先輩だろうが新人だろうが

どっちみち新米だから、新人の俺でも上司に認められさえすれば仕事が任せてもらえる

実際俺に仕事を教えてくれたのは行内の上司ではなく


俺たちを顧客とするゴールドマンやメリルやモルスタであり、法律はデビポーやサリクロ、ホワイト&ケースだった

 

だって俺圧倒的に英語できるし


お前外国人担当な

話聞いて日本語で纏めといて


新人のときからそんなだったからそりゃぁもう勉強になった

俺英語ペラペラでよかったぁ

 

大企業ってのは結構縦割り社会な部分があって、

銀行としては海外拠点網が整備されていたものの、

それは国際部門の拠点

 

俺ら投資銀行部門はまだできたばかりで投資銀行部門の海外拠点は充実しているとは言いがたかった

 

 

東京の上司がつぶやく

 

ニューヨークに拠点欲しいなぁ

毎晩夜勤やだなぁ

 

 

ロンドンには投資銀行部門の拠点があった

しかしニューヨークにはなかった(いや、あったんだけど、事務代行(信託業務)だけやっている拠点だった)

 

若気の至りでつい上司に言ってしまった

 

信託があるじゃないすか

今は事務しかやってないですけど、信託会社でもディーリングできるんじゃないすか?

 

おぉ!その手があったか!お前、フィージビリティやれ

 

調べた

できそう

 

じゃぁお前ニューヨーク行け

 

お前一人じゃ心配だからチーム組んでやるからチームで行け

お前、一番下っ端だけど(だって俺まだ入行2年目)、実質お前のチームだからな

(中小企業かよwと思った、正直)

 

ということでチーム4人でニューヨークに行った

そこでニューヨークの為替ディーラー(国際部門の人。一人は今でもよくテレビとかで日本株のストラテジーとかを解説してる人)と合流して投資銀行本部の拠点を立ち上げた

 

海外勤務では家族ぐるみの付き合いが東京より格段に増える

日本人コミュニティーだから当然そうなる

 

トントンは俺たちの父親だと自分では思っていたはず

 

当時の俺たちはトントンのことをおっさんと思っていた

 

自慢で言うわけじゃないが、日本の頂点の企業ではみんな仕事なんかできて当たり前

優秀で当たり前

 

その上でサラブレットと馬の骨がいる

 

当時の俺の部署のような新規部署にはサラブレッドはいない

灘・開成ー東大なんて人は来ない

だって失敗したらキャリアに傷つくから

 

使い捨てできるような馬の骨でチームは組まれる

馬の骨つったって一橋、阪大、上智、ICUだけど

 

トントンは理論的に考えるのは苦手

どっちかっつーとどぶ板営業が得意

だから俺たちからはおっさん扱いされてたんだけど

当時の年代の人の中では英語はちゃんとしゃべれる

ロスアンジェルスにいて英語が堪能なのでチームのヘッドとしてやってきた

投資銀行業務はまったくの素人

 

そこは俺がやる

トントンは年をとってることが大事

 

トントンは地方の県立トップ校出身で上智の法学部出身の馬の骨で、見るからにおっさん

だっさいおっさん

 

なのだが、人は見かけによらなくて

 

上智のゴルフ部出身でゴルフが異様にうまい

字もきれい

 

ニューヨークではウエストチェスターの高級住宅地のライに住んだ

名門ライ・カントリー・クラブの二番ホールの前の家に住んでいたので

チームでちょくちょく呼ばれちゃぁお前らいつも偉そうにしてるけどゴルフは下手くそだなとぼろくそに笑われた

 

俺はトントンにとっても可愛がってもらった

人情派のトントンは周りの人からも好かれていた

頭脳は別として、ほかの魅力があったから

 

そしてトントンはそこらじゅうで俺のことを褒めて自慢してくれた

「うちの若いのはすごく優秀なのがいる」

もうそこら中でふれて回ってくれた

トントンは大和田常務の初任店の1年先輩でもあったので

大和田常務にも上から行けて、猛烈に俺をアピールしてくれた

(あぁそうだ。なんで俺は大和田常務に可愛がってもらえたかって、トントンが俺を褒めちぎってくれたからだ)

トントンが港区のどっかの支店長だったとき俺が一時帰国をしたので挨拶に行くと

 

トントンは支店の若手を集めて

 

「おい、お前ら!こいつが俺がいつも言ってるニューヨークのときの超優秀な部下だ!

お前らこいつの足下にも及ばない!こいつの爪の垢を煎じて飲め!」みたいな訓話をされる

 

トントン....言い過ぎw

 

ホントもうトントンと俺たちチームは家族であった

 

平日の朝

「おい、お前ら!ちょっと来てくれ」

こっちは東京とロンドンからの仕事の引き継ぎで朝は忙しいのに

 

「おい、お前ら、中学受験してるだろ?勉強得意なんだろ?この問題教えてくれ」

 

トントンの子供が中学受験するのだが、その対策の問題を親子で毎晩解いているんだそうだ

 

で、鶴亀算がわからないから教えろという指示

 

東京でだったらあり得ない話だが、当時の黎明期の海外だからこその話

 

親子二人三脚の子育て 中学受験編 に俺たちは全面的に協力した

 

トントンがわからない問題を毎朝俺たちがちゃちゃっと解く

(言っとくけどトントンだって馬鹿じゃないんだけど、勉強、特に中学受験の問題は守備範囲外)

 

俺たちは、中学受験編の次には大学受験編、就職編、結婚編、家を買う編、孫が生まれた!編で

大騒ぎが起こるんだろうなぁと笑いながら話していた

 

大騒ぎは起こったw

 

俺は大学受験編にも(俺大学受験してないのにw)、就職編にも付き合った

 そうだ、孫が産まれたときも「名前どうしよう?」って相談されたわw


時は巡って、トントンはスイスの社長、俺は東京本部で投資銀行部門のグローバル戦略の担当をしててスイスも管理していたのでちょくちょく電話で話す立場だった

 

夕方(=スイスの朝)電話が来た

 

「おい!今度うちの息子が就職するんだよ」

 

来たw

 

「○○の情報くれ」

 

さすがに20年前でも信用情報なんかを銀行内といえども仕事以外の用途では渡せない

 

「産業調査部のレポート(対外発表してるやつ)でいいっすか?」

 

「おぉ、それ送ってくれ」

 

「今度は××を受けるからレポート送ってくれ」

 

そりゃ全部大企業だからさ、全部レポートはあるけどさw

送った

 

結婚編や家編はさすがに何も手伝うことはなかったが

そうやってなんだか一緒に育てたような気分の息子が今は立派になり

 

勤務先のニューヨーク拠点の執行役員として俺の住んでた家の近所にこれから住むというのだ

 

それがまた奇遇なことに、

 

その勤務先の本部の執行役員というのが俺の高校の同級生で

その同級生の元カノはニューヨークで俺の初代アシスタントとして働いていたというね

 

こんな偶然もあるんだなぁと

 

そしてついでに二代目アシスタントがどうしてるかなぁと久しぶりに調べた

確かニューヨークからサンフランシスコに引っ越して、今度行ったときは飯食おうねなんて言ってたんだけど

どうも今はホノルルで事業をしているらしい

 

あ、じゃぁハワイに行ったら飯食おっと

 

と思ったお正月

 

トントンたちニューヨークのチームともコロナ前まではときどき集まっていた

そのときは必ずトントンが全部おごってくれた

思い返せば頼りになるトーちゃんである

 

あの頃は世界は俺を中心に回ってるって思ってたなぁ

 

こんなに落ちぶれるとはなぁ

昔話が山ほどあるだけましか

濃かったんだよなー

何十年経っても色褪せないよなー

それに比べて最近の記憶のうっすいこと

毎日つまんねーな

もっとヒリヒリしてーなー

とほほ