いまさら日馬富士を弁護する | 日刊「きのこ」 skipのブログ

いまさら日馬富士を弁護する

大相撲における
モンゴル出身力士たちのことについて
ひとつ考えておきたいことがある。

日本の文化と
モンゴルの文化の違い
と言うべきことかもしれない。

それは、

ミンガド・ボラグ著
「スーホの白い馬」の真実
風響社、2016

を読んで思ったことだ。

同書によれば、
モンゴル放牧文化では、
子どものしつけは4種類ある。


①「エデスをあげる
②「アラガン・ボーブを食わす
③「トース・グビフ
④「アラス・ホーラホ


後になるほど、きつくて痛い。

①「エデスをあげる」は
もともと僧侶が参拝者の頭を
お数珠で撫でて功徳を授けること

そこから、
大人が子どもの頭を
指で軽く弾いて、
注意することを、
エデスをあげる
というようになった。

 

 

②「アラガン・ボーブを食わす」は
もともと「手のひらのお菓子」という意味。
親が子どものお尻を
手のひらで叩くようなことを、
アラガン・ボープを食わす」という。

 



③「トース・グビフ」は
まるで北斗の拳の擬音語のようだが、
埃をはらう」という意味。
箒で子どものお尻を叩くとき、
トース・グビフ」という。
子どもが悪いことをするのは、
ワルイモノが憑依しているからであり、
それをお祓いするという意味でもある。

 

④「アラス・ホーラホ」は
粗皮を剥がす」という意味。
つまり皮を剥がすような
激痛を与えるお仕置きのこと。
もちろん実際に皮を剥がすわけではない。
モンゴル人が家畜を調教するときに、
暴れる家畜には、
ちょっと痛い目にあわせる必要があるという。
このことばが子どものしつけに転用された。

 

 

日本では上記の4つのしつけは

すべて「体罰」という名で

ひとくくりにされている。
授業中、答えが出るまで生徒を立たせておくのも、
体罰にあたるので、それは教師の違法行為だという。

 

 

これらの4つのしつけは、
悪い行いを気づかせるのが目的であり、
子どもたちもある意味、
自分たちへの「応援」とも受け止めるという。
そう子供たちが思うというのも、
フゥールヒ・アミタン」という
すべての生き物に対する
哀れみや同情という認識が、
モンゴルの自然環境や
放牧文化で根付いているからだという。
モンゴルの自然は、
われわれ人間も含めて、
すべての生き物に厳しい。
食べられる羊もかわいそうだが、
羊を襲わなければならない狼も
かわいそうな存在だという。

「厳しい自然の前では、
全ての生き物は無力な存在である。
それが、人々の
自然への敬虔な感情と
恐れの感情を生み、
自然と共生し、
自然の一部として
謙虚に慎ましく生きる
生活の智恵を生んだ」


と著者は綴る。

さて、本題の
日馬富士の事件について、
振り返ってみよう。
私たちは、あまりに日本的に、
かの事件を断罪していないだろうか。

日本は法治国家だ
日本国内で起きたことだから
相撲は日本の国技だから
というご意見もごもっともである。
ただ、それは日本の立場からだけで、
事件を理解したことであり、
上記のモンゴル文化の立場から
受け止めてみたら、
ずいぶん違ったように見えるのでは
なかろうか。

これは構造主義的相撲文化論である。

たしかに、
日馬富士はやりすぎだった。
けれど、
モンゴル文化の中で、
しかも、
常人を超えた肉体と忍耐力をもつ
相撲力士どうしで、
である。
そこに日本相撲協会のような、
上下関係を重んずる
タテ社会の力学が作用すれば、
大人が子どもをしつけるように、
人間が家畜を調教するように、
アラス・ホーラホ」が
発動されることも、
ありえるのではないだろうか。
文字通り、貴ノ岩は
皮を剥がれた」わけである。

でも、両者に、
もしも「フゥールヒ・アミタン」の
共通認識があるとすれば、
事件の問題の見え方は、
全然違うのではないだろうか。

貴乃花親方は、
モンゴル人力士どうしの、
文化的結合を、
理解していないのではないかと思う。
また、多くの日本人も同様に、
日本文化に立脚した思考でしか、
日馬富士問題を理解していないのではないか。


以上のようなことを、
深く考える契機を与えてくれた、
「スーホの白い馬」の真実
という本に感謝する。
ぜったいに面白い一冊である。
みなさんにも、
ご一読をオススメしたい。

 

 

 

 

 

あー、文字ばっかりで、
しかも長々と、
小難しいことを書いてしまって、
ぜんぜん面白くなかったですね。
読者のみなさま、
期待外れでごめんなさい。
ちょっと考えることがあったので、
思考のカケラとして、
綴ってみました。
何か面白いことを、
書くように努力しますので、
今回はお許しくださいませ。