震災を特別視することは、無いと言うブログを読んだ。
生きていることが丸儲け。
そうだが、違う。
生きている時間の何処で起きたかが、重要なのだと思う。
戦争を知らない。
無差別に殺戮される恐怖を知らない。
無差別に殺戮する恐怖も知らない。
にほんの戦後生まれにとって、幾度かの震災の恐怖が最大の怖れになった。
犠牲者を悼む。
生きている後ろめたさに悩む。
加害者を特定しようとして、現場で最前線を守る誰かをすら呪う。
今回は、特殊だ。
たいせつな誰かを、家も土地も職場も奪われ、所属欲の満たされない仮設に住み、予定する防潮堤すら完成しない。
かといって、すべての住民が高台に移住もできない。
復興は進まず、原発を憎む。
電気無しで、生きられもしないのに。
どうしようもない迷路に在って、祈ること忘れないこと願うことに、救われる。
あのおそろしい記憶と、命懸けで挑み続けるかたがたを思う。
黙祷は、生き残った悔いと、手助けできない悔いを、わびるためでもある。
自粛と追悼は違うので、当時のなんでも控えて生きようと言う空気はどうかと思ったが、忘れず悔いて生きることくらいはしていたい。
戦争は防げる可能性があるが、天災のほうは防げない。
だからきっとずっと痛む。
ずっと悼む。
気持ちが傷むことは無い。
忘れない。