表現が不適切かもしれないので、先にお詫び致します。
申し訳御座いません。
認知症のご老人が線路を目指した理由を考えてしまいます。
とても哀しいことを考えてしまいます。
終えたい、という心理は本能に組み込まれているのでしょうか。
知的障害者と括られるひとのなかで、犯罪を犯し、服役するかたが少なくはないと、何処かで見かけた記憶が在ります。
生活苦で自殺ではなく、犯罪者になってでも生きようとし、刑務所での生活を知ると再犯してでも安定を求めるという説明が在りました。
境界線は何処でしょう。
認知症であっても、自尊心や家族をおもうこころは枯れず、不意に浮き上がり、何処かを探すとしたら。
ひとのこころは長寿に追いついていないのでしょうか。
記憶の重さを背負えないのでしょうか。
認知症は解放なのでしょうか。
肉体的にはもっと生きられるはずなのに、だいたい80歳辺りでいちど精神的な終焉を迎えるのでしょうか。
故意の鉄道事故は、遺族にとてもつらい借金を遺すと、知らないのでしょうか。
今回の事故を赦すことで、介護の苦しみから逃れる方法を広告してしまうのでしょうか。
家族だけでは苦痛が大きすぎます。
どうすべきなのか、考えます。
老いた親が、同じ話を再生し始めると、現実問題としてもうじきであることを覚悟させられます。
いまのところ日は違うので、トシヨリはこんなもんか程度ですが。
じぶんのこころが壊れたせいで同居したはずが、治るにつれ、じぶんのことよりも余程重大な近い未来を思うようになります。
悲観はしませんが、尊厳を守れる老いを考えます。
こどものようにあやすのではなく、おとなとして敬いつつ、相手に負担を強いることなくお世話するには、親族としてではない職業としての視点で接するべきで在るし、家族以外の手で介助されたほうが割り切れるようにも感じます。
身内はお互いに甘えが消えないので苦しい気がします。
今回の徘徊の症例は、息子のお嫁さんの存在で多少考慮すべき点が在るかと感じました。
認知症であっても歩行が不自由でなければ、見張らねばならない。
歩き始めた幼児が居たら、目放しはできない状況で、親は放置はしないですし、戸締まりも入念にするでしょう。
一瞬の隙があったにせよ、今回が予測不能な初めての徘徊だったかどうかが争点になるような気がします。
ご高齢の老人を追える程度には体力と脚力のある誰かが付いていられなければ、自宅介護はむつかしいということでしょう。
今後の介護者の需要は増すいっぽうです。
GPSなどを活用し、徘徊時追跡できる職業があっても良いでしょうか。
ヒキコモリ族がコンピューターで追跡し、おそと追っかけ担当が足で確保。
なんて企業ができて、国の支援があったら、認知症とニート問題両方すこし解決するよねぇ…(*'▽'*)
まず息子と嫁が覚悟決めて同居すべきなんじゃないのかな。
お母さんが生きているうちに、裁判より同居が先じゃないのかなぁ…。