自然な関係

自然な関係

ここでは、ノーマライゼーションの考え方に則り、人と人、社会と人、それらをつなぐ自然なつながり。そこにある確かなコミュニケーションの創造を求め、私が感じる日々の雑感を書き連ねたいと思っています。

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今年の干支、午年の人は、全国で160万人いるとのこと。有名人では、阿部総理やフィギュアスケー
トの浅田真央ちゃとか。
それはともかく、この僕もその一人。午年、1954年生まれの午年である。つまり、日本の中の午年の
160万人のうちの一人ということである。
160万分の1。そう、160万分の1の私の思いをどれだけの人にわかってもらえるか、伝えられるか、
そのために何をしたらいいのか、何が出来て何が出来ないのか、これからまた一年。出来るものを考
え、実行し、何かを見出すことが出来れば、そう、それが今年の目的。生きる目的となるように思う。
今朝のラジオCMから、
「言葉は、万能ではない」…。
とすれば、関係の復旧には、時間がかかるとか。
時間がかかっても復旧するものはするし、しなければ、それはそれ、それもいいのかも知れない。
どこまで、真剣に考えているか、思っているかだと思う。
とすれば、やはり、それを伝えるために言葉は必要だし、思いを伝えるために、様々なツールや方法
を活用する必要が生じる。どこまでそれをするか、一生懸命に尽くすか!だと思う。それをしないで
あきらめるようであれば、それがその人の思いだと。そう思う。
「美しき者にのみ、額づく。そして、その美しさを決めるのは、和私自信」との言葉。気に入っちゃ
った。人は誰しも、自分が思う、感じることにのみ好意を持ち、時に崇め、平伏し、服従を表しりも
する。そして、その行為を持つ者を決めるのは誰でもなく、その人自身だという。ただ、その美しき
者をどれだけの人がそう認めるかが鍵になる。
いや、誰もが認める美しさを見出す
眼力。創造するスキルを備えていなければいけない訳である
それにまた、どれだけ、自分が美しいと思って、好意を持っても、相手の真意は計り知れず、それで
もなお、好意を抱き、思いを貫く。そこに真の逢いとはかなさを感じたりスル。
ソウ、イマヤ、映画ドコロカ、目の前の人の顏デサエ見えない私。ソンナ私が見えないながらに、映
画を観に行く。そんな私が感じた今回の映画の感想は、ここなのかと今、感じている
男と女の違いもあるのかも知れないケド、一緒に行った友人は、最後に、利休の妻が切腹して果てた
利休に袈裟を掛けたとき、思わず、涙があふれて来たと言っていた。
P.S:。その映画の半分もいとするところを理解することが出来ない私。映画を観に行くことは、無駄
というか、単にみえなのかと思い
昨年末、友人に薦められて、映画『利休に尋ねろ』を観て来た。実は、昨年は、8月に「風立ちぬ」
を、11月に「陽だまりの彼女」をと二階、何年ぶりかで映画を観て来た。というか、楽しむ機会が
あったんだけど、今回の「利休に尋ねろ」がいちばん、その細かな場面展開等がわかりにくくて、一
緒に行った友人に後から聞いていくつかのシーンが理解出来たというありさま。それでも、それなり
に感じたことはあったし、行って来て良かったとは思っている。
大音量の大粒の雨音、風に揺れる林の様子。薪が燃える音などから、茶室でシャカシャカとお茶を点
てる音、茶釜のお湯が沸く音、さらに繊細なところでは、茶杓を茶入れの淵でコツコツと叩く音など
など。その度に情景が創造され、ステレオ音量での効果の魅力は、さすがに映画館ならでは、爽快な
ものを感じタ。
また、人一人がやっと通れるくらいのにじり口・や武茶室内には刀は持ち込まず、、身分の上下を問
わず、一腹のお茶で客をもてなす。そこに秘めた亭主の思い。武士が駘蕩する社会にあって、茶道を
持って意義を唱えるという、どちらかと言えば非常識?な私にとってとても小気味のいいものダッタ。
あけまして、おめでとうございます。
20年ぶりにお会いしたある陶芸家のお話。お茶席で目の不自由な人にお茶を差し上げる際「ここに置きます」。と口で言うのではなく、あえて、カサッと音を発てて置くようにしていますと
のこと。これも"もてなしの心"かと。昨年、巳年に因んで賀状にしたためた長いものに巻かれたいと
の思いも終ってみればどこえやら。永年培った性格はそうは簡単に直る訳もなく…。そうこう言いな
がら、60年。今年2月、還暦を迎えます。生まれた年の干支に帰還する0歳に戻るとのことなのです
が、これまた、赤ちゃんのように純粋な心にはもどれるすべもなく…。
飛馬に憧れ、駄馬にもなれず、それでもなお、駑馬に鞭打ち、精一杯の人生を駆け抜けたいと思って
おります。本年もよろしくお願いいたします。