公言通り、寝る間も惜しんでオリンピックを見続けているのだけれど。

 下手なフィクションを見るよりもずっと、ドラマティックなノンフィクションが次々と展開されて、消化するには時間がかかるなぁと思っている次第。やはり素晴らしいよ、何かに懸命に取り組んでいる人の姿は。

 そんな中、小ネタの覚え書き。

 

 其の壱。スケートボード。競技採用された前回から思っているのだけれど、「ローティーンが大活躍」って、驚くよりもそりゃそうでしょって思う。子供の時、「一輪車に乗れました」って人、結構多いと思うのだけれど。じゃなくても「木に登れた」とか「竹馬で走れた」とか「自転車に手放しで乗れた」とか「高い堤防を歩くのが好きだった」とか、子供の時には出来てたけど大人になったら出来なくなったことってあると思う。

 バランス感覚と怖いもの知らずは10代前半の特権だと僕は思っていて、もちろん技の習得のためには大変な特訓が必要だけれど、スケートボード習得のために必要なのは時間よりも感覚が重要なのでは、と。

 なので、逆じゃね?って思う。「アラサーで決勝進出!」があったら驚くべきなんじゃね?と。体も技も心も時間をかけてブラッシュアップすることで上達していく競技と同等の価値観で騒ぐのではなく、競技ごとの特色を考えて実況して欲しいなぁと思う。選手たちが素晴らしいのは変わらない。けれど「子供なのに凄いね」的な、安易な表現やインタビューは本人たちの輝きを安っぽくしてしまう気がして、僕は好きじゃないな。

 

 其の弐。ネームコール。柔道を始めとする、いくつかの競技で「アベ ヒフミ」と、氏と名が逆さまにならずに呼ばれている。これは素晴らしい。日本文化では氏名が標準。他国も同様で、その国の文化に合わせたネームコールと表記が採用されている。表記は、氏が大文字、名が最初だけ大文字。「ABE Hifumi」。柔道が日本発祥の競技だからってのもあるだろうけれど、どっちにしてもリスペクトが感じられて嬉しい。

 名前の響きって大事だと僕は思っていて、逆さまになると意味は変わらないけれど響きが全く違うじゃんって。西洋文化が全ての標準ではないのだけどなって、地味にいつも思っていた。

 ずっと前に観た、アメリカ大陸を発見したコロンブスを題材にした映画。コロンブス側に半強制的に英語を教えられ、彼らの衣服を与えられて、通訳として雇われた先住民族の男が、付き従う中で彼らの態度に疑問を持ち、最後に衣服を脱ぎ棄てて森に帰る場面。信頼していた従者の裏切りに「何故だ」と問うコロンブスに、「今度はお前たちが私たちの言葉を覚えてから来い」と言い捨てて森に消えていく。僕はその場面を今でも鮮明に覚えている。

 多様性を、世界各国の文化を尊重するのなら、ネームコールは出身国基準がいいなと思う。

 そして思う。日本の、中国選手の呼び名、変えて欲しいのだけれど。漢字文化は一緒なのだけれど、読みというか響きが全く違うでしょ。「陳夢」は「チン・ム」じゃないでしょ。「シェン・ミェン」でしょ。「王曼昱」は「ワン・マンユー」でしょ。「オウ・バンイク」って別人過ぎるでしょ。リスペクトしようよ。