日中の気温は未だ夏模様が続いているものの、

それでも陽の長さは暦通りに短くなっていて、

朝夕の冷え込みを感じれば、ああ秋だなぁと想う。

 

先日、天高くと表すのが相応しい秋晴れの日に、バイクを走らせた。

ドライブやツーリングに出れば、目に映る景色に季節の移ろいを思う。

枯れ果てて幽霊花となった彼岸花。ちらほらと咲き始めている秋桜。

穂が伸び始めたススキ。刈り取られた稲田や麦畑。

山々の樹々も色付き始めている。

それらを見れば、ああ秋が深まっているなと実感する。

 

ただ、ドライブとツーリング、クルマとバイクでは大きく異なる事がある。

その一つが「匂い」だ。

 

先に述べたような景色に、季節感を満喫していると思いながら信号で停まる。

すると、どこからともなく風に乗って金木犀の香りが届く。

近くの家の庭かなと辺りを見渡すも、オレンジ色に染まった樹木は見当たらない。

あれれと思いつつも、短い信号では見つけることは出来ず、発進する。

しばらく走っていると、また金木犀の香り。

走りながら素早く辺りを見ても、過ぎ行く景色にオレンジ色は見えない。

これが走っている間に何度も起きた。

結局、走っている間に金木犀の木は見つけられなかった。

 

その金木犀探しを始めると、他の秋の匂いにも注意が向く。

刈られたばかりの稲田からは新鮮な藁の匂いがする。

たまに野焼きの焦げ臭い匂いもする。

 

この暑さであれば、クルマなら窓を閉め切ってクーラーを入れているだろう。

となれば、この秋の匂いに気づくことはなかっただろう。

秋が深まっているなという感覚はテレビで見ているような平面に近く、

立体的に感じることはなかったに違いない。

 

視覚だけではなく、嗅覚や聴覚や触覚が加わることで季節感の捉え方が変わる。

これは季節感だけのことではない。

物事、殊に自然の捉え方、即ち世界の捉え方が違ってくると、僕は思う。

いかに脳内で新世界を築き上げようが、そもそも脳自体が物質なのであって、

ヒトは人間という動物なのだから、自然や世界の捉え方が狭いまま、

新世界を築こうとしたって良い世界にはならない、と思う。

 

オンラインでは知る由もない感覚を得るために、

僕はたまにバイクに乗りたいと、思う。

 

 

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愛知県津島市にある「津島神社」。手水舎越しの南門。

津島神社は織田信長が氏神とした神社。

 

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境内の広場。本殿前の拝殿と楼門。

重要文化財の楼門は豊臣秀吉が寄進して建てられたもの。

南門は秀吉の子秀頼が父の病気平癒を祈願して寄進されたもの。

 

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門前でネクる。

これで味覚が加わり、五感を完遂。感覚フル活用。