自由は両刃の刃。
自由は、心のまま、願い通り、自在、何ものにも縛られない、フリーダム。
しかしながら、それは無法、不規律、無秩序、ルール違反にもなり得る。
人が集団で生きられるのは、法や規律、秩序、ルールがあってこそなのは解っている。
でも、それでも、僕は自由を求めてならない。
なぜなら規律の行き着く先が、統制、制御、管理、支配にもなり得るから。
同じだけれど、同じじゃない。
同じじゃないけれど、同じ。
この機微を掴むまで、僕は自由と規律を想い続ける。
オリンピックで話題となったこと。
選手による競技会場での政治的、宗教的、人種的な宣伝活動を禁じた、
オリンピック憲章第50条の緩和。
これにより選手たちは自由に意思表示ができるようになり、
抗議行為が認められることになった。
試合開始前、人種差別に対する抗議として、
片膝をついて黙祷を捧げる選手たちを見た人は多いことだろう。
素敵なことだし、極自然なことだと、僕は思う。
ただし、表彰台上での抗議行為は認められていない。
同じように全てが自由になった訳ではなく、抗議行動は条件付きで認められている。
この判断をどう読解するか。
僕は正解だ、と思う。
何だよ、フリーダムじゃないのかよ。
素敵なことのどこに問題があるって言うんだという意見もあるでしょう。
けれど僕は、正解だと思っている。
全てを許してしまったとすれば、
武力でもって国を支配し、非人道的な行為を行う独裁政権下の選手が、
「我が祖国は偉大なり」と意思表示することも可能になる。
特定の宗教国家が敵と見なす特定の国に対して抗議行動をすることも可能になる。
歪んだプロパガンダも、憎悪に満ちた差別行為も、自由になる。
そんな自由は僕の想う自由ではない、と思う。
ゆえに、第50条の条件には、
人や国を標的としたものではない、他国の国歌演奏時には実施しない、
他の選手の妨害行為ではない、などの条件が付されている。
同じだけれど、同じじゃない。
まだ落ち着いていた頃に、ふらっと出かけた時に撮ったもの。
やっぱり楓は緑色の方が好きだ。