母の遺体は、火葬していない。
と言っても、床下に埋まっているとか本物のリビングデッドになったとか、ではない。
では何故か。
母の遺体は「献体」として大学に提供したから、火葬していないのだ。
献体とは、
大学の医学部での教育や研究のために、自らの遺体を無条件で提供すること。
もちろん、生前から献体を希望する旨を、
自らの意思で大学や関連する団体に登録しておかなければならない。
母は生前に献体希望登録を済ませていた。
元はと言えば、父が言い出したこと。
さらに元はと言えば、父の叔父が献体したことに遡る。
叔父の葬儀で献体を知り、関心を示した父が「ワシも献体する」と言い出して登録した。
そして、「じゃ私も」と母が登録した。
「ワシらが死んだら頼む」と登録証明書の在り処を、僕は覚えさせられていた。
そりゃそれが必要になる時、あなたたちは死んでるんだから世話はない。
結局世話するのは俺じゃねぇか、と思いながら生返事で聞いていた。
なもんだから今回、僕はすっかり忘れていた。
死亡確認直後から、未知の段取りの予測で頭が一杯になり、
仮想シミュレーションではもうすでに火葬してしまっていた。仮想火葬。
で、葬儀屋と葬儀日程を決める際に父から言われて、
「あ。そうだった」と思い出す始末。
これ、父の時にはどうだろうなぁ。焼いちゃったらごめん、父。
献体は実際、なかなか手のかかる注文の多い引き取り屋だ。
まず、平日でないといけない。日曜日は休業らしい。
そして、空きがないといけない。「今、間に合ってるんで」ってこともあるらしい。
確かに宿泊者が多いと寝る場所もないんだろうと想像はつく。
加えて、綺麗な死体でないといけない。事故とかじゃ確かに…。
今だと新型ウィルスによる死亡も受け付けないだろう。
僕が葬儀屋との打ち合わせであたふたしている間に、
献体した叔父の子、父の従兄弟にあたる親族が、
「親父の時にやったから大体の要領は分かる」と、登録先に連絡を取ってくれた。
引き取りに来てくれるか否かで、葬儀日程や出棺時間が決まる。
そっち主導ってどんだけ注文が多いんだと思いつつ、
本人の希望だから致し方なしと諦めて待っていたら、
運良く、希望日希望時間に引き取りに来てくれることとなった。
さらに追加注文をあげておくと、
通常、火葬までの間は腐敗が進まないように遺体のお腹の上にドライアイスを乗せて、
おへそで釘が打てますというくらいカチコチに凍らせるのだけれど、
あまり凍らせると体組織が変質してしまうとのことで、横に添えるのみ。
まだ夜は冷えるくらいの季節だったからいいけれど、真夏だったらどうすんだろ。
また、
死亡届を市役所に届け出る際、同時に火葬許可証をもらうのだけれど、
その時に「火葬場はどこを使用するか」が問われる。
僕は最初、どうすればいいか分からず、
「えーと、火葬しないんですけど」と言って、市役所職員さんに「え?」と言われた。
しどろもどろになりながら説明し、手元にあった資料などを見せると、
きっとそういうケースを受け付けたことがあるのであろう職員さんが、
「これですね」と、研究後に大学近くの火葬場で火葬されることを理解してくれて、
火葬許可証をちゃんと出してくれた。
後から献体マニュアルを見たら「火葬許可証の発行について」の項目があり、
「この指定火葬場を伝え、発行してもらうように」と書いてあった…。
良かったぁ、合ってて。ありがとう、読解力の高い市役所職員さん。
研究期間はおよそ2年。2年後に火葬され、遺骨となって母は帰って来る。
献体の引き取りは、通常の出棺と何ら変わりなかった。
礼服を着た2人の丁寧な担当者が霊柩車仕様の車で迎えに来てくれた。
出発の際には親族で棺を運び、哀悼のホーンを鳴らして出発する車を見送った。
もっと事務的な味気ないものなんじゃないかと想像していたから、
ちゃんとしてるんだ、と思った次第。
ただ、通常と異なるのは、車に父は同乗しないし、親族が急いで後を追うことはない。
もちろん、その後の火葬も待ち時間も納骨も、ない。
これはこれで楽かもしれないなと、思う。
他にも通常と異なるのは、
引き取り前に同意書などの何枚かの書類を記入しなければならないこと。
最終確認というか「本当にいいですね?家族も同意してますね?」的な。
ゆえに葬儀の終わり間近、出棺前に迎えが到着すると、
僕は係りの人に呼ばれ、到着した担当者に説明を受けながら書類を記入。
丁度、皆が出棺前の最後のお別れで、鼻水をすすりながら棺に花を添えている裏で。
本当にどこまでも僕を悲しませないなぁと、
ある意味感心するわと思いつつ、ペンを走らせた。
おまけに火葬しないのだから、
棺の中のものは焼却されるのではなく、遺体以外は大学で処分されるのであって、
入れれば入れる程、向こうの職員に世話をかける訳だ。
ただでさえ気苦しいだろうに、大事にしていたであろうモノやたくさんの花があったら、
「あぁ、大切そうに入れてもらってあるけれど、ゴミとして出すしかないのよね」と、
僕だったら、より気苦しくなるに違いない。
なので、あんまり色々入れるなよ、花もそこそこにしとけよと、
ペンを取りながら裏の様子が気になって仕方なく、
ああ俺も最後のお別れがしたい、もしかしたら泣いちゃうかも。
なんて、ちっとも思えなかった。
そして、案の定だ。
僕の手続きの方が時間がかかり、まだ書き終わっていないのに、
「最後だから、あなたもお別れしなきゃ」と姉が鼻水をすすりながら呼びに来た。
もうちょっとなのにと思いつつ、担当者も先にどうぞと言うので式場に戻ったら、
母上は、棺の中で花に溺れていた。
おまけに、ジジイいつ仕込んだと、怒りというか顎が落ちるというか、
毛筆でよく分からんメッセージが書かれた半紙数枚が、母上の胸元に置かれている始末。
本当に悲しませんなぁと、溜息が出た。
「あなたも少しくらい」と姉が花を渡してくれたのだけれど、
正直、これ以上増やしたくないという思いの方が強かった。
しかし致し方なしかと思いつつ、花を添える。
そして、真打登場的な視線に囲まれているのを感知する。
なんて声をかけるの?泣いちゃう?泣かせてくれちゃう?的な。
僕は、母上に一別をくれ、
学校帰りに友達と別れるように「バイバイ」と手を振って、
外で待つ担当者の方に戻った。
通常、火葬して納骨するから、
その後の初七日やら忌明けやらの法要には、遺骨が入った骨壺がある。
けれど、献体となると遺骨がない。
最初は「空の骨壺だけど入ってる体でやるしかないんじゃね?」と言っていたのだけれど、
「それじゃあちょっと寂しくね?意味なくなくね?」と思うに至る。
そこで姉と一計を案じた。
通夜の夜、姉と2人になった際、
「そろそろやるか」「やろうやろう」と、2人でそっと棺の蓋を開ける。
静かに眠っている母上に、
「悪く思うな」「ごめんね」と声をかけ、2人でそっとハサミを入れた。
断髪式。
遺骨の代わりに、骨壺に遺髪を入れよう。
さすれば弔いも無意味に思うことはあるまい。
姉弟で案じた策を、静まり返った夜更けに実行した。
母の子、2人だけで。
「どの辺だ?」
「見えない所でしょ」
「じゃ後頭部の方だな」
「少しでいいからね」
「分かってるって」
「怒るかな?変な髪型にして!って」
「かもな。案外、見栄え気にする方だったから」
「よし。後は見えないように整えて」
「ああっ。ちょっと切り過ぎたのか、ハネる…」
「だから言ったじゃん」
「とにかく押さえよう。こう、枕をだな」
「そっち引っ張ったら、こっちがおかしくなるって」
「大丈夫だって。これをこう…」
「ほら、今度はこっちが」
と2人で母と戯れながら、2人で採取した母の遺髪を骨壺に納めた。
献体を、怖いとか可哀想とか言う人もいる。
僕はこれっぽっちも思わない。全くもって有意義だとしか思えない。
そのおかげで、どれだけ医術が発展し、どれだけ命を救ってきたことか。
怖いとか可哀想とか言う人の手術も、
過去に献体した誰かのおかげで成功率が上がっているのに。
母は、最期まで、誰かのために生きた人なんだな、と思う。