誰かが亡くなり、その葬儀となると、
必然、残された者、集まった者、生きている者の間で、故人を偲ぶ話が交わされる。
今や、故人の死を悲しみ惜しむ気持ちは形骸化され、
式典となって、手順と時間割に支配されており、
ゆっくり話をするなんてなかなか出来なくなってしまっているのだけれど、
集まった者で偲ぶ話をする時間こそ、
本来は大切な弔いの時間のはずなんじゃないかと、思う。
ゆえに僕は今まで、祖父や祖母、伯父や伯母などの葬儀の際、
少しでも時間があれば、集まった親類などに故人の思い出話を聞いて回ってきた。
故人やその家族のことを思ってというよりは、
僕のルーツであり、僕の人生に関わった人の、僕の知らない姿を知りたかったからだけれど。
そこには、歴史に名を残した人の人生譚と同じく、
自分にとっては祖父や祖母だけれども、当然ながら彼らにも幼少期や青年期があり、
それなりに波乱万丈なドラマがあったりする。
それは歴史書や大河ドラマを見た時と同様の驚きと理解の面白さに満ちていて、
さらにそれが今の自分に繋がっているのだと思えば尚更、
他では得られない知的満足に、僕は悦びを覚えたりする。
今回は、我が母の葬儀。
僕は喪主となり、田舎の葬儀のあれこれをやらねばならぬ。
けれど、自分の母親がどういう人だったのか、もっと知っておきたい。
ゆえに、僕は隙を見つけては、母について、彼女の人生について、
僕の知らない彼女のことを知る人たちに話を聞いた。
加えて、かねてからの家の整理、
母の遺物の片付けをする過程で見つけた彼女の痕跡に、その人物像を求めた。
自分の知る母との思い出も合わせれば、
それは彼女の一代記として長編小説にでもしなければならないので、
ここには少しだけ、彼女について記しておこうと思う。
母は、「新しき婦人」だった。
彼女が若かりし頃は、まだまだ「女性は結婚して家庭に入るもの」が主流であり、
殊に地方においては、より一層、そういった考えが色濃く残っていた。
けれど彼女は、自分の生きる道を自分で選んだ。
高校卒業後、看護学校に通い、正看護師免許を取得した後、
小学校の養護教諭として、長年に渡り教育現場に立った。
同じく教師として働いていた父と恋をして、3人の子を持つ母親となっても、
彼女は仕事を辞めることはなかった。
なぜなら彼女は、自分の子供も、学校で教える子供も、皆同じように、
心配で、大好きで、その成長する姿を見ることが喜びだったからだ。
母に「なぜ看護師ではなく、養護教諭を選んだのか」と問うたことがある。
その答えは、
「病院は亡くなる人を看取ることが多い。私はそれが辛かった。
比して教育は、これから育っていく子供たちに与えるもの。
終焉よりも未来や希望に、私は携わりたかった」
だった。
同じ問いを姉もしたことがあったらしく、答えは合致していた。
いつも笑っていた彼女らしい答えだ、と思う。
親が共働きであったことについて、
僕は「親が居なくて寂しい」と思ったことがない。
我慢をしていたとか、辛い思いを奥深く封じ込めたとか、
そういう心配が馬鹿馬鹿しく思えるほど、これっぽっちも、ない。
確かに、僕が小学生だった頃、
学校が終わって友人の家に遊びに行けば、大抵、その母親が出迎えてくれた。
パートや内職のような仕事をしている人もいたけれど、
フルタイムで働いている母親は、ほとんどいなかった。
さらには両親が教師だったのだから、授業参観であるとか運動会であるとか、
そういう行事は同じ地域であれば同じ日に行われるのが常であり、
僕の保護者は大抵、祖母だった。
けれど、それが通常であって、寂しいことではなかった。
それはもちろん、姉や祖母を始め、
周りの大人たちや友人などが僕を見守っていてくれたからに違いない。
その上で、
母は寂しい思いなどさせないと、何倍もの努力をし続けてきたのだろう、と思う。
授業参観の最後、昼休みのチャイムが鳴る直前くらいに母がちらっと姿を見せる。
きっと少しだけ昼休憩を早めて、外に出る許可をもらってきたのだろう。
運動会も昼食の間だけ駆け付ける。弁当は昨晩遅くに作っていたのを知っている。
かと言って、毎回現れた訳ではない。
そういう時に姿が見えないのは、きっと病気やケガの子が学校にいたに違いない。
もちろん、日常の食事や家事も、休日のレジャーや年中行事も、
忙しいから疲れているからと蔑ろにされたという記憶は、ない。
むしろ自分が親となって、よくやってたなウチの親と感心したほど、
彼女は努力していた、と思う。
その結果、僕はこれっぽっちも、寂しいと思ったことがない。
母の困ったところは、散々ぱら、今までにも記してきた。
熱意はあってもセンスのない手料理や、
健康志向で極一般的な駄菓子すら食べさせてくれなかったことや、
それがこじれて紛い物の健康食品や健康器具を掴まされ続けたことや、
モノを大事にするのが度を超えて、家を準ゴミ屋敷化させていたことなど、
衝突したり、忌々しく思ったりしたことは多々ある。
こういう話は、ネタとして笑いに昇華させるのが一番良い、と僕は思っている。
もちろん、他者に多大な被害が及んでしまうようなことになっていたら適わないけれど。
彼女の場合、本人が馬鹿を見たり、被害者は配偶者と子だったりするので、
「ほんと困った人で参っちゃう」とネタにできたりするのだけれど。
通夜前に、内々の親族が集まって来てくれた際、
おもてなしというか、落ち着けそうで落ち着かない時間の接待に、
僕は大いにこの手のネタを披露した。
皆、薄々は感じていたり、多少の被害にあっていたりする人たちだからこそ、
「そんなところもあったよね」と昇華させて欲しかったから。
母は不慮の事故や道半ばで無念の死を遂げた訳じゃない。
だったら僕は、ただただしんみりとして、涙に暮れるだけの葬儀にしたくない。
なぜなら母は、泣いている人より笑っている人を見るのが好きだったからだ。
ひとしきりネタ口上を捲し立てたところで良い時間となり、
「これ以上悪口を言うと怒って起き上がってくるといけないから、この辺で」
と切り上げたら、
叔母の一人が「ちゃんと聞こえてた?」と、少し茶目っ気のある声で、
その場に座りながら黙っていた父に問うた。
それは、耳が遠くなっていて聞こえていなかったから黙っていたのか、
それとも、聞こえていて敢えて何も言わないのか、どっちなの?
息子があんな風に面白おかしく言いたい放題なのに、という問いだった。
それまで父は、
寂しさとノスタルジーで、元来のユーモアが嘘のように、
しんみりちんまりとしか接客できていなかった。
親族は皆、今までの彼がどんな人かを知っている。
だから、茶目っ気を加えて彼に問うた。
彼がちゃんとユーモアを持って答えてくれることを願って。
父は、
「おい、息子がお前のことをボロクソに言うとるぞ」と、
少し大仰に、母に告げ口をしに席を立った。
叔母を始めとする一同は、その姿に笑い、和み、安堵した。
本当に久しぶりに父のパフォーマンスを見たなぁと、
最も安堵したのは、僕だったかもしれない。
母の遺物を片付けていて、
整理のせの字も見当たらない写真の山を、幾つか発掘した。
そこには彼女の中学や高校のアルバムなど、
見たことのない彼女の姿、僕よりもずっと年下の母の姿などがあった。
その発掘作業によって、
あちこちに埋もれていた写真を「とりあえず写真類はココ」と一山にしておいたお蔭で、
遺影を始め、葬儀場に展示して来場者に懐かしんでもらうための写真を、
何とか滞りなく、提出することができた。
母が死んだ夜、通夜前日の夜に、
姉と二人で未整理写真の山から選択するのに相当の時間を要したけれど。
そんな写真の幾つかを母の枕元に置いておいた。
親族が集まった際、良い話のネタになるに違いないと、姉と企んで。
案の定、大変役に立った。
「ああ懐かしい」「あ、これ私」「これはいついつにどこどこで撮ったやつだ」と、
皆、母との思い出、自分の思い出、たくさんの思い出に触れていた。
時に、手持ち無沙汰で時間を持て余してしまうことが多い弔問が、
懐かしい写真のお蔭で、愉快で有意義な時間になった。
写真には、父と母の結婚式の様子を写したものもあった。
当時の田舎の結婚式で、式場などではなく、
父の実家、田舎で言うところの母屋で祝言を上げる結婚の儀。
写真屋を呼んで撮ってもらったモノクロの大判には、
スーツの父と打掛の母が緊張の面持ちで写っていた。
加えて、よくカメラがあったねと思うスナップ写真も何枚かあった。
それらには三々九度の姿や式後に新婚旅行に見送られる姿などがあったのだけれど、
その中に、
着替えが終わり、披露前に小屋で控えている花嫁、という写真があった。
その写真を見て、叔母が話してくれた。
叔母は父の妹。母が嫁いできて、本当の妹のように、最も信頼していたと言っていい人。
叔母は僕と同じように親族の歴史を収集しており、
父として母として決して息子に話さないような二人の秘密をたくさん知っている。
叔母は言う。
「結婚式の時にね、集まった人たちが話してたの。 『あんな嫁さんは初めてだ』って」
何だか不穏な入り方じゃないかと、思う。
「皆が言ってるの。
『あんなにニコニコしてる花嫁は見たことがない』って。
当時の田舎の嫁入りだと、花嫁は皆ずっと緊張しっ放しで、
笑う余裕のある人なんていなかった。だから写真も皆、しかめっ面ばっかりだったのよ」
初めて聞く話だった。
面白いじゃないか、母上。
葬儀に来てもらった人、彼女のことを知る人、皆が言う。
「あなたのお母さんは、本当に綺麗で、本当にいつもにこやかだった」と。
参っちゃうなぁ、母上。
あなたの悪口を言う僕は、本当に悪党になっちまうじゃないか。