4月7日早朝、快晴。

僕はいつもより早く起きて、ツーリングの準備をしていた。

 

温かくなって、新型ウィルスが少し収まったら是非ツーリングに行きましょうと、

旧職場の大先輩と約束していた。

その先輩は、僕が退職する少し前に退職していた。

永年勤続が表彰されるほど医療に尽力し、

本来なら、惜しまれ、感謝され、勇退するはずの大先輩だったのに、

とある小さな事件をきっかけに理不尽な経営判断が下されたため、

組織の在り方に呆れ果てて、未だ退職には早いのに、自ら職を辞してしまった。

彼の辞職が、彼のような人を無下にするような組織の現状が、

僕自身の辞職の理由の一つでもあった。

 

そんな齢60オーバーのくせに、

2年程前に新車でハーレーダビッドソンを買うという腹立たしい先輩と、

ようやく、初めてのツーリングの機会を得て、

9時の待ち合わせに向け、僕は準備をしていた。

少し早いかなと思ったけれど、僕も久しぶりにバイクに乗るので、

慣らし運転のために待ち合わせ場所まで遠回りして行こうかと、

身支度を整え、8時に部屋を出ようとした時だった。

 

僕の携帯が鳴る。

先輩かなと思ったら、母の入院している病院からだった。

病棟の看護師が慌てた声で説明を始める。

そして、「すぐに来てください」と脅迫に近い訴えで締めくくる。

「ご主人にも連絡しましたが出られないので」とも。

 

父は、小学生の集団登校に付いて、出かけていた。

頼まれてもいないのに勝手に付いて歩くという散歩が日課になっていた。

また携帯を不携帯で出かけたのかと忌々しく思いながら、僕からもかけてみる。

やはり出ない。通学路を辿って拾うしかないか。

とりあえず先輩に中止の旨を連絡する。

「そりゃいかん。早く行ってやれ。ツーリングはいつでも行けるから」と後押しをもらう。

僕は未だ、せっかくの機会だったのに、と思っていた。

分かってはいるけれど、少しだけ、また生き返るんじゃないかと、思っていた。

 

先輩との電話を終えると、携帯が鳴る。父だ。

「ワシにも連絡が来た。もうじき家に着く」。速足らしい息使いの声だった。

幸いなことに、ツーリングに出るつもりで準備していたため、身支度はできていた。

でなければ、洗顔も歯磨きも髭剃りも整髪も、何もできていなかったかもしれない。

父も散歩に出た帰りなのだから外出着になっている。

父が家に着くや否や、間髪入れずに病院へと向かった。

 

電話連絡をもらってから病院に着くまで10分。

父と二人、事と次第は分かっている。

同じような状態は何度も繰り返してきたけれど、

今回は、ついに最後になるのかなという空気が車内に充満していた。

 

僕の役割は、ここから始まっている、と思った。

 

黙っていれば、きっと父は沈黙したままに違いない。

そして、ここ1年、新型ウィルスのせいで思うように母に会えなくなってからというもの、

柄にもなく、食えないメランコリー状態が続いていた彼は、

また追憶の美化と大仰な自己陶酔の世界に閉じ籠ってしまうだろう。

だからこそ、

僕は平然としていなければならない。

悲しさや寂しさに誇張は必要ない。

皆が素直に悲しむためにも、父を自分だけの世界に行かせてはならない。

 

「先日の伯父といい、兄妹揃って晴れ男晴れ女だな」と僕が声を出すと、

助手席で、前を見ているはずなのに見えていなかった父は、

今気づいたという顔で「本当だな。雲一つない」と答えた。

外の景色を、現実世界を、しっかりと見つめられれば、

時が止まることはなく、移り変わっていくことが自然なのだと、

無意識にでも理解できる。

その後も、思いつくままに、極めて通常通りに、僕は話を続けた。

 

「桜の花より長生きしたよ」

すっかり花が散ってしまった桜の木が車窓から見えたので、

何気なく、見たままに、口にした。

3月中に逝くんじゃないかと予測していて、

桜は見れないだろうなと思ったことがあったからだった。

そして、まるで母が我慢比べに勝ったような、

何だかよく分からない勝利感のようなものを感じて、

大変よく頑張りましたと、

すっかり親子が逆転したような褒め方を、胸の内で唱えていた。

 

 

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