先の記事は感想文な訳だけれど、
今シーズンは新型ウィルスによってNFLも特別な年となったので、
より感慨深いものがあり、少し考察というか補足しておこうと思う。
アメリカにおける新型ウィルスの被害は甚大で、
日本とは比べ物にならない感染者が出ている。
なので、全世界がそうであるように、
アメリカでも様々なイベントが開催中止に追い込まれた。
そんな中で、NFLはリーグの開催を決定した。
もちろん、
試合前の全選手及びスタッフのPCR検査、フィールド外でのマスク着用、
基本的に限られた関係者以外無観客(状況により入場者制限で観客あり)、
など蔓延防止対策を行っった上でだけれど。
しかしながら、残念なことに度々、選手やコーチなどに感染者が出た。
ゆえに延期される試合も幾つかあった。
または、陽性者を除き、検査で陰性が確認された選手だけで戦うなど、
主力級の選手がごっそり抜けた状況で戦わなければならないチームもあった。
それでも、NFLはリーグを決行し、最終のスーパーボウルまでを完遂した。
日本なら、この判断をどう考えるだろうか。
あなたなら、どう考えるだろうか。
僕は、よくやった、と思う。
アメリカンフットボールは、スポーツとしては新しいけれど100年の歴史がある。
100年の間、ルールや装備や技術が更新、洗練され続けてきたのだけれど、
それはアメリカの、人類の、テクノロジーの進歩と同じ歩みを重ねてきたからだ。
ゆえに、その時代に生きる人たちの感覚に近いスポーツ、
等身大の理想が凝縮されたスポーツとして進歩し続け、受け入れられてきた。
そして、その結果、NFLはアメリカで最も人気のあるスポーツとなった。
その100年の歴史において、数々の名勝負、名選手、スーパープレーが生まれ、
アメリカ中の老若男女が、世界中のNFLファンが、熱狂し続けてきた。
僕もその中の一人なのだけれど、
NFLの試合を、プレーする選手たちを観ていて度々感じる気持ちがある。
「屈しない」だ。
どんな強敵であろうと、どんな苦境であろうと、
彼らは何度でも立ち上がり、何度でも策を練り、何度でも壁にぶつかって行く。
そんな彼らの姿が人間の逞しさ、僕も含めた人類の逞しさを体現してくれていると、
体の中心の奥の奥から心強く感じるのだ。
そんな選手たちは、観る者全てのヒーローだ。
スーパーマンが「感染症が怖いので、しばらく変身は止めておくよ」では話にならない。
ヒーローは、どんなピンチでも必ず登場し、活躍を見せてくれるもの。
だからこそ、
進歩を続ける歴史を、決して屈しない心を、止めてはならない。
リーグ決行には、そんな決意があったと、思う。
「屈しない」を「止めてはならない」。
これこそ、今最も皆が聞きたい言葉、誰かに言って欲しい言葉ではないか。
スーパーボウルの開始前、モニターにファンたちの写真が映し出された。
リーグ戦でもそうだったけれど、
本来ならスタジアムに駆け付けたいところ、
外出制限、入場制限で駆け付けられないファンたちが、
「応援してるよ」と撮った写真がモニターに映されるのだ。
その中に、
医療従事者たちが防護服を着て、応援するチームの旗を掲げた写真があった。
今最も感染拡大のために苦境に立たされている者たちが、
感染拡大を引き起こすかもしれないとされるスポーツイベントを、なぜ応援するのか。
心。気持ち。意思。
必要なのは、対策だけじゃない。
試合前には、
新型ウィルスによって亡くなられた人たちに黙とうが捧げられる。
医療従事者たちに感謝と敬意が述べられる。
互いのリスペクトがあってこそ、心は伝わる。
NFLには「ウォルター・ペイトン賞」という賞がある。
年間を通じ、優れた社会貢献活動を行った選手に贈られる賞だ。
各チームから1人がノミネートされ、
最終的に年間最優秀選手や監督と並んで、1人が表彰される。
NFLの選手たちはヒーローだけあって、超高額所得者だ。
そして、その所得から社会貢献活動を積極的に行うヒーローだ。
人種差別や環境破壊の改善解消を図る団体や、
病院や児童福祉施設、高齢者介護施設など、
選手各人が社会問題に取り組んで、寄付や慰問などの慈善活動を行う。
ただフットボールが上手いだけでは、ヒーローにはなれないのがNFL。
そんなヒーローの誰かがコメントしてた。
「私は幸いにも屈強な身体を神に与えられた。
神に与えられたものは私だけのものではない。
ゆえに、私が得たものを皆に還元するのは当然のこと」と。
彼らは、強い。
怯えたり、縮こまったり、留まったりしない。
彼らは前に突き進む。
彼らがプレーすることには、プレー以上の意義がある。
よくやった、と僕は思う。