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嗜好品の証拠写真。

フォルダに新しい写真がなく。

僕にとっては、ある意味絶景ですが。

 

 

いい天気だなと思うと、すぐに出掛けたくなってウズウズするのだけれど、

ここのところ毎日が晴天で、さすがに毎日を放浪する訳にもいかない。

本当は、心の奥の方では、

そんなフウテンでいられたらどんなに素敵だろうとこっそり思っていることは内緒だ。

 

内緒だけれど、少しフウテンについて考えてみたりする。

そこで、フウテンになるには二つの選択肢が思い浮かぶ。

一つは、何も所持しないこと。

何かを所持すれば、その世話が生まれるのだから。

もう一つは、誰かの世話になること。

誰かが所持品や帰る場所を守り、世話をしてくれれば、自分は行動できるから。

 

はて、と想う。

 

一つ目は、モノを持たぬ代わりにカネを持っていなくてはならぬ。

家もないのだから、宿を借りるなど屋根とベッドがなければ休むこともできない。

畑もフライパンもないのだから、食堂で食すなど調理ができなければ食べることもできない。

想像しやすいのはロールプレイングゲームの勇者だけれど、

魔物を倒せばカネが手に入るという都合の良さは、現代社会にはない。

RPGには、パスポートひとつを始め、社会保険、年金、住民税など、

現代を生きる上でかかるカネは必要ない。魔物を倒した宝石に所得税はかからないし。

加えて、家族や友人などモノのように簡単に捨てられないものもある。

定住せず、定職を持たず、何のしがらみもなく、

安定の代わりに自由を選択して、

不安なしにフウテンを楽しむためには、相当の資産と勇気が必要だ。

 

もう一つは、随分図々しいなぁと思う。

けれど、小さなフウテンはどこにでも転がっている、と思う。

故郷を離れ、遠い街で暮らす者。

家事を任せ、居酒屋で酔っている者。

子供や年寄りを預け、甘味に興じる者。

誰かに何かを守ってもらい、自分の行動を優先する者たち。

そして、ア痛タタと胸が軋む。

 

どちらにせよ、フウテンはなかなか難しい。

やっぱり、こっそり思っておくのが相当かと、想う。

 

 

丁寧な生活。

一時期、流行り言葉のように囁かれた言葉。

所持したモノを丁寧に扱おうと言うのは僕も賛成で、

その時期、どうすれば良いだろうかと色々調べたりした。

けれど、所持してしまったモノの数が多過ぎて、

とても丁寧になんて扱っていられないというのが実際の生活だった。

 

丁寧には時間がかかる。

反対に、時間をかければ丁寧にできる。

掃除も、料理も、誰かとの会話も、一人で嗜好品を楽しむことも。

 

ただし、時間には限りがある。

では、どうすれば良いだろうか。

何かを減らすしかあるまい。

今までにも何度そう思ったか。

にも拘らず、どれだけのモノを増やしてきたことか。

 

同じように思い、同じように迷い、同じように疲れてきた、

母の遺産を少しずつ、丁寧に片付けながら、想う。

 

 

あ、母上は死んでませんよ。

母を迎えるに当たり、清掃と片付けをしてるのであって、

遺産と言っても「世界遺産」的な遺産であり、

何と言っても彼女は世界レベルの溜め込み屋さんだったのでね。

まあ出るわ出るわ、消費期限切れのモノが、見たこともない食器が、

包装紙に包まれたままの贈答品が、こびりついた油汚れが。

…未だキッチン周りだけで。押し入れ等はブラックホール級だし。

おまけに父は世界レベルの散らかし屋さん。

で、この夫婦の子息である僕は、その遺伝子を両方継承しているからこそ、

今まで掃除片付けがなかなかできなかったと。

ただ、反面教師としても見てきた訳で、

職場では「仕事は整理整頓から」とスタッフに発破をかける人だった。

 

なので今は、

いかに父母を家で幸せに暮らさせられるかが僕の仕事なので、

仕事となればやらねばなるまいと、掃除片付けに精を出している。

出来る限り、丁寧に。

慌てず、怖れず、苛つかず、少しずつ。

自分の嗜好も忘れずに。

 

さ、明日は何が発掘されるかな。