赦す。
というのは、本当に難しい。
強さ、殊に辛抱の屈強さが無ければ適わないから。
僕は愚か者なので、まだまだ修行が足りない。
すぐに腹を立て、やさぐれて、喚き散らし、取り乱す。
早々に徳や格などを得られそうにない。
ただ、努力はしている。
斯くありたいと願い、見様見真似ながら、今にも沸騰しそうな心持ちを、
ありったけの勇気を振り絞って、ぐっと奥歯で噛み殺す。
それが努力と言えるのかどうかは分からないけれど、
ここで踏み止まることができれば、無用な諍いの連鎖が断ち切れるのではないか、
と願って。
しかしながら、再び僕は愚かにも、願いの対価を求めてしまう。
赦したのだから、相応の変化を見せてくれ、と。
「礼には礼を」は自発的であれば徳となろうけれど、
「礼には礼で返さんかい」となると、見返りの要求でしかない。
赦すという言葉の真意は、決して対価を求めない行いであるはずなのに。
それでも、と思う。
「変える」ことと「変わって欲しいと願う」ことは違うと、想う。
また「変わって欲しいと願う」ことと「何もしない」ことは違うと、想う。
何とも中途半端で、また理解し辛い表し方だけれど、
それでも、僕の想う「赦す」という行為は、そこにあるような気がして、
留めの無い逡巡を繰り返す。
ニュースで取り上げられている、自らの命を絶った若い女の子。
その母親の「お願い」を見ただろうか。
自らを、他の誰かを、何かを、責めたり恨んだりしないでください。
負の連鎖を止めてください。彼女が望んだ優しい世界に少しでも近づけるように。
という内容の。
また、アメリカで起きた黒人青年の死亡においても、
担ぎ出されたようにデモのスピーチに立った弟が語った言葉も。
暴力的なデモや破壊行為をしても兄は帰って来ない。皆、何やってんだ。
という内容の。
これまでにも、被害者の親族等で、
勇気を持って、歯を喰いしばって、赦そうとした人たちは居た。
多くが「許さない」「忘れない」「重い処罰を」と、悲しみよりも怒りに飲み込まれてしまう中で、
悲しみを受け止め、辛抱強く、真の平和を願う人たち。
彼らの願いに触れる度、彼らを敬い、礼を尽くし、僕も斯くありたいと願うのだ。
まだまだ道は遠く、僕はちっぽけだ。
造作ないことでいちいち憤慨し、様はない。
学ぶべきことは、山とある。