もう、3月。

そして新型ウィルス狂騒曲は、まだまだ終息を向かえない様相。

「何かあった時こそ、焦らず騒がず対処できる事」がオトナの条件の一つだと、

僕はずっと思ってきたけれど、どうも違っていたみたいで残念だ。

何だか残念だなぁと思いつつ、

今日も少しだけバイクを走らせて、気を晴らした。

 

 

 

僕はウォッチャーで、プレイヤーではない。

色々なことで思うのだけれど、スポーツで考えるのが最も分かりやすい。

 

僕は160kmのストレートも投げられないし、フォークボールも投げられない。

けれど、サヨナラホームランを打たれた贔屓チームの投手をTVで見ながら、、

「今はフォークを投げるべきだっただろう」と嘆き、ぶつくさ言ったりする。

サッカーを見ても、ラグビーを見ても、マラソンを見ても、同様だ。

 

若くて無知でしかなかった頃は、この「ぶつくさ」が酷かった。

ちょこっとだけの知識で全てを知ったかのように語り、

横暴な神様になって、ただただ文句を言いまくっていた。

けれど、人生を過ごす中で、「出来ない事」が増えるにつけ、

少しずつ考え方は変わっていく。

 

160kmのストレートを投げられる体を作るために、

食事制限やトレーニングを24時間365日管理する。

期待と敵意が圧しかかるピッチで、勝敗を分けるPKを蹴る覚悟を決める。

大男にタックルを食らおうが踏んづけられようが、なお立ち上がる。

40kmを2時間で走り続けながら、なおゴールへのスパートをかける。

僕には「出来ない事」ばかりだ。

 

「なぜ、こうしない」「なぜ、そんなことをする」「弱過ぎる」。

勝手な神様は、簡単に言える。

けれど、少しでも自分の身に置き換えて見れば、

神様ではなく、自分と同じ血肉を持った実体だと想像すれば、

アスリートたちが驚異的な次元で戦っていることが理解できる。

 

躓いて、手を着いただけでも擦り傷で泣きそうになる。

10m走っただけでも息が切れる。

牛乳を買った時の買い物袋を持つのは重くて嫌になる。

大勢の前でスピーチする前の晩に寝付けない。

なんて奴が、神様になって簡単にアスリートを非難するなんて、

おこがましい事この上ない。

 

出来ないからこそ、尊敬は生まれる。

そして、知ることにより、非難ではなくアイデアを生むべきだ。

「素晴らしい。ただ、こうすればもっと良くなるのではないだろうか」と。

 

もちろん、これはスポーツ観戦だけではなく、

仕事でも家事でも、誰かが何かをやっているのを見た場合、何事でも当てはまる。

見るという、せっかくの神様目線が与えられたのなら、

ただ非難ばかりの横暴な神様になるのではなく、

実体を持った人として理解と創造を育んだ方が良い、と思う。

 

賢明なウォッチャー能力はオトナの条件の一つだと、

僕は思う。

 

 

大迫君、君は色々言われやすい人だけれど、

今日の東京マラソンのランニングは本当に素晴らしかったよ。

ブラボー。