昨日今日と、とても良い天気だ。

肌寒さよりも、マフラーの温かさを感じられる、空気感。

窓から入る風を「遠くから渡って来た」と感じられるのは、

春風と、この季節の晴れた風だ。


僕が幼かった頃は、

今吹いているような風が、

9月下旬から10月の初旬に吹いていたような気がする。


稲刈り前の、見渡す限りの金色の稲穂。

風が吹く度に、稲穂のウェーブがさざ波立つ。

「見える風」が渡ってくるのを眺めながら、

自分の髪が揺れた瞬間、自然、顔がほころぶ。


「その者、金色の野に降立つ」

まさに、姫様が降立つような景色。

渡る風には、ネコバスが走っていたに違いない。


それも今は昔。

減反や転作、後継者不在により、田は一面ではなくなった。

虫食いの銀杏の葉のように、所々、欠けている。

虫の侵攻は止まることなく、

今や、稲田の方が少なくなってしまった。


世は、移り行く。

僕が懐かしむ田園風景も、野うさぎや虫や魚たちからすれば、

「ああ、美しい景色が壊されていく」って眺めた、成れの果てだろう。


もう、稲刈りもすっかり終わってしまっていて、

渡る風も、撫でるものを探して彷徨っているようだけれど。



芥川龍之介 『芋粥』。

1916年発表。『今昔物語集』の一話を、芥川が翻案した短編小説。


舞台は、885年頃の平安朝。

天皇を置きつつ、藤原氏が摂政政治を行っていた時代。

主人公は、名も無き、一人の侍。

五位という、昇殿を許された最下位の役職の、中年親父だ。


何となくは、覚えているんじゃないかな?

僕は、どこかの学年の教科書で初めて読んだと、思ってるんだが。


有名作家というより、もはや古典であり、

何より短編ってのが、読書感想文の宿題には便利だったから、

皆1回は読んでるんじゃないかと。



この話、僕は喩え話に使うことが、しばしばあった。

「田舎の良さ」を伝えたいときに、

「田舎じゃ、おいしいものは当たり前に食べてる。

 ほら、『芋粥』のようにさ」

ってな具合に。


この解釈の仕方。

芥川の伝えたかった意図とは、まったく異なる。

また、出典の『今昔物語集』の意図とも、異なる。



物語は、こんな感じ。


うだつが上がらないどころか、皆に馬鹿にされ続けている五位。

妻は坊主と浮気して、当の昔に出て行ってしまった独り者で、

色褪せたヨレヨレの着物を着て、毎日変わらぬ日々を過ごす。


性分が貧弱なのか、優しすぎるのか、

皆に無視され、「ああはなりたくないものだ」と、

無粋の喩えとして笑い者にされても、怒りさえしない。


終いには、悪ガキに注意しようとして、

「ウゼェよ。向こう行ってろよ」って言われて、

「あぁ、余計な口出しをしなきゃよかった…」って、

とぼとぼ引き返す始末。


そんな五位には夢がある。

職場の宴の時などにしか口にできない「芋粥」を、

飽きるまで食ってみたい、という夢。


ある時、宴が催された。

好物の芋粥が、僅かばかりだが回ってくる。

ポツリと「飽きるまで食ってみたいなぁ…」とつぶやくと、

隣にいた精悍な侍が「ほう」と応える。

「お付き合いくだされば、飽きるまで食わせましょうぞ」と。


声を掛けた侍は、藤原利仁。

藤原時長の子で、藤原有仁の娘婿で、摂政 藤原基経に仕える。

…とにかくエリート中のエリートだ。

しかも、容姿も心胆も、五位とは比べようもない、精悍な武人。


酒の席での一興ではあったが、利仁は、本当に五位を連れ出す。

行く先を告げず、とにかく行きましょう、と。

恐る恐る着いて行く事にした五位は、

京をどんどん離れていくことに、段々不安になる。


悠々と旅を楽しんでいる利仁に、五位は「…どこまで?」と尋ねる。

引き返せない所まで来て、利仁は「敦賀(福井)まで」と話す。

五位は驚く。「芋粥のために、そんな田舎まで…」と溜息をつく。

「やめときゃ良かった…」と。


敦賀は利仁の義父、有仁が治める土地。

豪族としての権勢は、これ以上はないという程の栄華を誇る。

利仁は、京よりも多くを敦賀で過ごす、田舎好きエグゼクティブだ。


2日かけて敦賀に辿りついた五位は、なかなか寝付けないでいた。

立派な館、たくさんの従者、綿の入った着物に布団。

暮らしの違いに、ただただ感嘆する。

そして、「容易に夢がかなってしまうのはなぁ…」とウジウジ考える。


明朝、五位は飛び起きる。

旅疲れから、知らぬ間に眠りに落ちて、寝過ごしたかと。

慌てて起きて、中庭の様子を窺う。


中庭を見て、五位は開いた口が塞がらなくなった。

中庭には、途方もなくデカい山の芋が、山々と積んであったのだ。


そして、その周りでは、祭りか戦場のように、

何十人もの男女が「芋粥」のために、テキパキと作業に従じている。

新しく設営したカマドに薪を焚き、大釜の五つ六つに湯を沸かし、

大量の山の芋をどんどん投入していく。


この光景に、五位の食欲は、完全に失せてしまった。


その後、有仁と利仁と朝食を共にする時には、

「厚意を無にはできない…」と、なんとか口にするという始末。

「遠慮なさらずに」と言う藤原親子に、

汗を拭き拭き、「いや、もう本当に結構」と断りを入れる―――。



芥川は、最後に、こう続ける。

「五位は、ここへ来ない前の彼自身を、懐かしく振り返った。

 それは、皆に愚弄され、飼い主のないむく犬のように京をうろつき歩く、

 あわれむべき、孤独な彼である。

 しかし、同時にまた、芋粥に飽きたいという欲望を、

 ただ一人大事に守っていた、幸せな彼である」、と。


芥川は、

どんなにみすぼらしく見えようとも、どんなに小さな夢であろうとも、

夢を胸に抱いている者は、幸せな人なのではないか?

夢を実現させたいと想っている時こそが、幸せなのではないか?

と、問うのだ。


『今昔物語集』は、

ただただ、藤原氏の権勢が、いかに豪勢であったかを記す。

解釈も何も、「貧乏侍がビックリするくらい、藤原様はスゲーんだ」と。



僕の喩え話の使い方は、物語からすれば、誤訳だ。

だけれども、喩え話としては、

芥川の意図や原典の意図ではなく、

誤訳でも使えるじゃんって、何故だか、しっくりくる。


驚きのダイナミズムとでも言おうか。

時事ニュースやCM的な原典の意図や、

近代化時代を背景に置く、じんわり染み込む芥川の意図に比して、

主人公が感じる驚き感は、

それだけ取り出しても、十分に意味を持つくらいの力がある。



・・・と、僕は、これを読んだ時に思ったんだろうなぁ。

だから、「『芋粥』みたいに…」なんて、通じ難い喩えを言うんだろう(笑)


だって、僕の家の玄関の前にさ、誰からとも知らず、大根や白菜が、

それこそ山の芋みたいに、俵積みにされるんだよ。

あれを見る度、『芋粥』を思い出すんだ(笑)


手紙も恩も置いていかない送り主は、

「いつでも採ってっていいからね~」って、

30秒の産地直送を可能にする、近所の爺様婆様たち。

なんと有り難い人たちか。


「野菜が高騰して・・・」とか「ベランダ家庭菜園で・・・」とか、

街の暮らしからすれば考えられないようなことが、

僕の田舎では、当然の如く、起きる。


もちろん、僕が成したものなど全くなく、

ただ環境に甘んじ、興じているだけだけれど、

街の暮らしでは到底味わえない田舎のダイナミズムを、

利仁が如く、「自然が恋しいなら、いつでもどうぞ」って、言える。



今は昔。世は移り変わる。


桜は「満開が美しい」のか「散りゆく様が美しい」のか。

月は「満月が美しい」のか「十六夜月が美しい」のか。

ワンピースは「かわいい」のか「ダサい」のか。

解釈は、時代によって、ひっくり返ることもある。


『芋粥』のようなエピソードは、

たまには誤訳して、楽しんでみるのも悪くない。



ちなみに、

上記の物語のあらすじは、かなり利仁贔屓に書いてあります。

たぶん、いじわるで五位を連れ出して、

からかったってのが実際だろうけれど、僕は嫌いじゃなくて(笑)


エリートってのはイマイチ気に食わないけど、

五位を、あからさまに蔑む奴ではないような気がして。

サプライズ精神とユーモアがある、いい男だと(笑)

割愛したけど、狐の話は、

彼と彼の細君が仕込んだ、よくできたユーモアだと、僕は思うけどな。