名古屋市美術館に、レンブラントが来た。
・・・と思ってたら、あっという間に終了が近づいてて、慌てて見に行った。
いかんね。いつの間にか、躊躇しちまうのがクセになってる。
感想は、正直なところ、ちょっと物足りなかった。
豪華な欧風フルコースを期待してたら、
繊細な懐石料理が出てきた感じ。
とてもおいしいし、一流の腕前は分かるけれども、
期待したメニューではなかったという、ガッカリ感。
レンブラントのせいではなく、まったくもって僕のせいだ。
というのも、展示のメインが銅版画だったからだ。
銅版画が面白いのは、十分承知。
17世紀において、「印刷」がいかに最先端のテクノロジーだったかを考えれば、
それを駆使し、モノクロでの表現を突き詰めるなんて、面白くない訳がない。
けれど、銅版画は「工芸品」だと、僕は思ってしまう。
その非常に繊細な制作作業を考えると、感性よりも技術が必要だと思うから。
もちろん、工芸も芸術だし、どんな芸術も優れた技術がなければいけない。
ただ、「天賦の才」と感じるか、「匠」と感じるか。
それが僕の、芸術作品と工芸品との境界線。
僕は、銅版画に「匠」を感じてしまうのだ。
だから、違った。
残念だけれど、仕方ない。
ただし、レンブラントは素晴らしかった。
僕のくだらない気持ちなんか目じゃないほど、素晴らしかった。
銅版画も、油彩画も、やはり天賦の才に圧倒される。
「光と影の画家」なんて呼ばれる、レンブラント。
『夜警』って絵が、もっとも有名かな。
テンガロンハットみたいな帽子を被った、
黒と白の兵隊長二人に、スポットライトが当たってる絵。
あのスポットライトの当て方が、
彼が「光と影の画家」と呼ばれる由縁だ。
今回の展示でも、それは十分に感じられた。
それを版画でもやってのける彼の感性と技術。
「どうなってんだ?」って、
銅板の原版を、ぐるぐる見回してみたけど、分かんない。
「何色なんだ?」って、
油彩画を、ぐるぐる見回してみたけど、分かんない。
そこに在るもの。
光が当たり、影が生まれる。
僕らの世界の見え方の当たり前。
それを精密に写し取ることすら、僕には出来ない。
なのに彼は、レンブラントは、
精密に写し取った現実感を壊さずに、さらに劇的に魅せる術を持つ。
光を、影を、質感を、感情を、キャンバスに描けるのだ。
敬服。
彼の絵の素晴らしさに。
彼の追求心と研究心の情熱に。
特に感心したのは、
彼は、ただ光と影を上手く描ける画家じゃないってこと。
「照り返し」というか「間接光」というか、光と影の間を描くことに卓越してた。
そこに在るための、グレー。
世界も、人の気持ちも、白か黒かなんかじゃない。
光から一歩出たら、影じゃない。
光と影を織り交ぜている部分が在るからこそ、そこに在る。
そこに在るもの。そこから生まれるもの。
レンブラントは、きっと、様々なグレーを描きたかったに違いないと、僕は思った。
「光と影の画家」という常套句に、苦笑いするんじゃないかなと、僕は思った。
でもねぇ、レンブラントは、やはり「匠」だったよ。
油彩画で、女神を描いた絵があった。
女神は、金襴のローブをまとっているのだが、
このローブの金糸、つまりは金属部分が、本当に金属に見える。
女神の柔らかな肌や、シルクのような衣服とは、まるで質感が違う。
やはり「どうなってんだ?」って横から覗き込んだら、見つけた。
金属部分だけ、絵の具が盛ってあった。
そこだけ、レリーフのようになってた。
実際の光を絵に取り込む、仕掛け。
「匠」の技だ。やりよる。
レンブラントが版画家でもあったって、知らなかった。
在命当時は、版画こそが、彼の名を高めたんだとか。
あと、生涯の年表で面白かったのは、
妻が早くに死んだ後、雇った家政婦と愛人契約したけど、
もめて裁判沙汰になったらしい。
んで、また家政婦雇って、できちゃった婚で再婚したり。
その後、名声も富もあったはずだけど、破産して財産を失って、
案外、さみしい死に方したみたい。
・・・イメージ、違ったなぁ。