僕は、斉藤和義が好きだ。歌うたいの斉藤和義。
僕は、音楽はとっても好きだけれども、疎い。
けれど、それは恥ずかしいことというよりも、長所だと吹いて回っている。
疎いからこそ、こだわりが薄い。
こだわりが薄いからこそ、おかしな先入観や偏見がない。
だから、何でも受け入れられる、と思ってる。
僕は、自発的に「あの音楽を聞こう」と思ったことが、ほとんどない。
TVやラジオから聞こえてきて「いいなー」と思っても、
「絶対あのCDを買わなきゃ」というような、迫られる衝動が起きないのだ。
興味がないわけじゃない。
クルマに乗れば音楽を聞くし、カラオケは大好きだ。
ここにだって、音楽についてのことを書いたりしてる。
けれど、自発的な積極性は低く、疎い。
なぜか?
僕の音楽は、人から与えられたもの、だから。
好きになった人が好きな音楽が、僕の好きな音楽だから。
さらには、「お前は気に入ると思うんだよな」って、
好きな人が僕のことを把握した上で、薦めてくれたりする音楽が、
ほぼ間違いなく、いいなと思う、僕の音楽になるから。
もちろん、そこから好き度合いは変わる。好き嫌いじゃないってのが、ミソ。
嫌いというマイナス感ではなく、どれくらい好きか、プラス感での評価。
僕が好きだという音楽は、プラス感が高い音楽ってことだ。
だから、僕の音楽は人と直結してることが多い。
そもそも音楽は、人の気持ちを表現するものだから、
当然といえば当然なんだけれど。
僕は、斉藤和義が好きだ。
これは、最初に務めた職場の先輩からのオススメだった。
その職場には1年しか勤めなかった。
先輩と一緒に働いたのは、10ヶ月くらいじゃないかと思う。
今思い返しても、不思議な蜜月で、とっても楽しかった。
先輩は、こんな人と出会うことがあるんだなぁと笑っちゃう人。
とても似てるようで、まったく似てない、不思議な人。
僕は勝手に野球のバッテリーを想定して、
先輩がピッチャーなら、僕はキャッチャーだと思ってたり。
存在や動作はまったく違うけれど、ボールへの思いは同じで、
ユニホームもバッティングも同じ側だと、思うから。
「次はカーブでしょう」とサインを送ると、
うなづく時もあれば、「いや、フォークだ」と首を振る時もある。
三振が取れれば「うまくいったな」と共に感激し、
打たれれば「しまったな」と共にうなだれる。
どういう状況にあっても、先輩の投げるボールに、
僕は信頼を持って、ミットを構えられると思っている。
・・・たまにある暴投やパスボールは、
「てめぇちゃんと受けろ!」「どこ投げてんですか!」って、
悪態も平気でつける。
困ったときは、美人マネージャーもいるしね。
で、先輩からの斉藤和義経由で、読書。
伊坂幸太郎の『ゴールデンスランバー』を読んだ。
この伊坂幸太郎が、小説家になるきっかけが斉藤和義なんだって。
斉藤和義の歌を聞いて、サラリーマンを辞め、小説に専念すると決めたとか。
『ゴールデンスランバー』は映画化もされてるけど、
主題歌は、原作者の要望で、斉藤和義に依頼されたそうだ。
このエピソードを聞いてなかったら、
僕はこの本を手に取ろうと思わなかった。
さらには、アメーバで知り合った人が、
「伊坂幸太郎の本を読んだ」って話さなかったら、
上のエピソードも忘れてたままだったと思う。
僕は何様でもない。
人から人。
僕にとって大切なものは、人から与えられて、積み上がっていく。
感想。
ビックリした。面白かった。というより、嫉妬した。
「好きな」というより「書きたかった」言い回しが、溢れてた。
僕は、お馬鹿さんなので、
「映画監督になる!」とか「小説家になる!」とか、
デタラメな有言不実行を、よく口走ってきた。
残念な人だよ、まったく。
だから、現代小説は読まなかった。
言い回しが影響されちゃうとか、馬鹿の考えで。
いやぁ、でも、すごいや。面白い。敬服。
ジャンルがミステリーになってるけど、単純な謎解きなんかじゃないもの。
描写とか会話とか、好き評価はかなり高いしね。
この人の文章をもっと読みたい、
この人の感じ方をもっと知りたいって、久しぶりに思ったもん。
『人間の最大の武器は、習慣と信頼だ』
物語に出てくる言葉。僕もそう思う。思いたい。
また一つ、好きなもの、大切なものを積み上げたのかなと、思う。
面白いって思えるって、やっぱり嬉しい。
僕は何様でもなく、少しづつ、僕になっていく。