「好きなアーティストは?」

アメーバのプロフィールにある質問。


大抵の人は、歌手が多い。

最近は、歌手が歌手と名乗らず、アーティストと名乗ることが多いからだろう。

「ハイパーメディアクリエイター」なんて肩書きの人もいるくらいだから、

自称は何でもまかり通る。


芸術。アート。


造形、言語、音楽、舞台、建築、応用(デザイン)、映像などなど。

表現者が鑑賞者に何らかを働きかける手段、媒体、対象。

何らかとは、信念、思想、感覚、感情などなど。

・・・やるなぁウィキペディア。


要するに、

芸術家・アーティストは、

「誰かに自分の思ってることを伝えるのが上手な人」

ということだと、僕は解釈する。



表現者の思いを鑑賞者が受け取るということ。


芸術は、受け取り手がいてこそだという考えに、僕は賛成。

鑑賞者なしの純粋芸術とかは、ちょっと寂しいので置いておく。


んで、これまた要するに、

絵を見たり、音楽を聴いたりした時に、

「僕が思っていることと同じだぁ」

と思ったり、

「僕には思いもよらなかったけど、そう来るかぁ」

と思ったりして、

「それをこんなに上手に表現するなんて、素晴らしいなぁ」

と感心することが、

思いを受け取ることだと、僕は解釈する。


そのほかにも、

「なんじゃこれ、訳分からん」とか、

「気持ち悪い~」とか、

色んな感情を刺激したり、考えさせることを目的としたものもあるが、

ちょっと面倒くさいので置いておく。


そう考えると、

ここで僕が書いている文章を読んで、

あなたが僕の思いを受け取ってくれたなら、

僕は立派なアーティスト。


あなたのブログを読んで、

僕があなたの思いを受け取ったならば、

あなたも立派なアーティストだ。


芸術家・アーティストなんて言うと、

「大先生!」とお呼びしなけりゃならない感があったりするけれど、

そういうものじゃないと、僕は解釈する。


だから、

偉大な芸術家は、

その卓越した技術でもって、

たくさんの人に自分の思いを伝えることができた人なんだと思う。

神などではない、僕やあなたと同じ人間なのだ。



最初の質問に戻る。


僕は 「S.dali」 と書いている。

サルバドール・ダリ。

あのヘンテコなヒゲのスペイン人だ。


もちろん、他にもたくさんの素晴らしいと思うアーティストはいる。

ただ、一人だけ挙げろと言われたら、僕はダリと答えている。


最初に見たのは、小学生の時だったと思う。

それこそ「なんじゃこりゃ~」の世界。


ただし、ただ呆れ果てるだけではなく、

「こんなことしてもいいんだ」という、えも言われぬ感覚も、同時に覚えた。

「これが美しく、正しい世界ですよ」と教えられてきたものとは違う世界。


後にそれが、

僕にとっての 「表現の自由」 を与えられた瞬間だったと思う。

だからこそ、彼の名前を、僕は挙げるのだ。



ダリの作品で、最も有名なのが「記憶の固執」だろう。

かのグニャリと垂れ下がった時計の描かれている絵。


この絵の絶対的な意味を解釈するのは不可能。


ダリ自身が述べているのも、

「有名な柔らかい時計は、

 柔らかく、非現実的で、孤独で、

 偏執狂的批判的な時間と空間の

 カマンベールに過ぎない」

とのこと。

・・・すごいなぁ。これぞシュルレアリスムって感じ。


だから、偏執狂的な評論家によって、様々な解釈が与えられてきた。

中には「あれはインポテンツに対する恐れだ!」なんてのもあったり・・・。


受け取り方は、人それぞれ。

それこそ、受け取り手の心境によって、あの時計はグニャリと溶ける。


僕も時折々に、画集を眺めてきたが、

たぶん、いつも違った見え方をしていると思っている。


それがダリの絵の面白いところなんだと思う。


彼の生涯や言葉を知ると、もっと面白くなったりね。

・・・気持ち悪いだけじゃないよ。



今僕は、あの柔らかさ独特の嫌な感じを、痛感する。


否応なしに進む時間。

無駄だと分かっていても、すべてに固執したい気持ちが沸々と沸き出でる。

せめて自覚あれと積み上げる記憶。

けれど、その良し悪しは計り知れず、眠りにつくことが救いでしかない。

そしてまた、時間は進む。

記憶に固執したまま進む時計は、カマンベールのように溶け始め、

溶けたカマンベールが、手や頬や衣服に着いた時のように、

ベタベタとまとわり着いて離れない。

炎で焼こうにも、水で流そうにも、ナイフで切ろうにも、

あの柔らかさは、拭いきれないのだ。


うむ。シュールでありながら、具体的現実性がある。ダリ的。


途方に暮れつつも、ダリの芸術に感嘆する。

彼は、偉大だ。