「壺中100年の会in群馬」の2社目は草津温泉と共に群馬を代表する湯治場、伊香保温泉にあるリゾートホテル、株式会社ホテル松本楼であった。東日本の温泉地に来るのは初めてなのでどのようなところなのか楽しみではあった。社員数は現在120名(正社員46名、嘱託社員4名、パート70名)だということだで、宿泊は「ホテル松本楼」と「洋風旅館ぴのん」の他にもペットと宿泊できる「Doggyスイートペロ」などもあり、他にはパンやその他食品の製造も行っているという多角経営ぶりだ。

 

社長の松本光男さんは元々は茨城県でダスキンの代理店の支店長をしていたが、倫理法人会の全国大会で現在の若女将松本由起さんと出会って、松本楼へ婿養子として跡を継ぐことになった。午前中に訪問した(株)アドバンティク・レヒュースとも似ているところは、先代の経営者が業績第一主義ではない、人本経営に近い考え方を持ち、会社を運営していた点だ。先代の女将は中学生の時、小児麻痺の友人がいてその子たちの悲しい思いを知っているからこそ、障がいのある人もお客さんとして迎え入れてきた。大浴場で障がい者の人がそそうをして浴場の湯を汚したことに激高した客が、障がい者を宿泊させるようなホテルが悪いというようなことを言い出すと、それまではひたすら平謝りしていた女将はたまりかねて「お客さんが別の旅館に行ってもらえませんか。この人たちは、うちにしか来られないんですよ」と言い放ったという。(朝日新聞『天声人語』2023年12月9日号より概略)また、松本社長が入社してまもなくリーマンショック、東日本大震災と立て続けにピンチが訪れたが、そうした中、先代社長は全従業員を集めて次にように宣言したという「この松本楼は絶対に守ります。一人も解雇しませんし、給与も下げません。もし潰れるとしても、伊香保でいちばん最後に潰れるホテルになります。皆さんは安心して働いてください」

 

この先代社長夫妻の社員や社会的弱者を大切にする気持ちには心打たれるが、そのDNAは大正時代に東京・日比谷の松本楼で修業した由起さんの曾祖父母が伊香保に洋食店を開き、当時としてはハイカラなオムライスやハヤシライスを出して長逗留する文筆家に愛されたという、他の旅館とはスタートが違う点もあるかもしれない。1964年に伊香保が温泉地として大発展をしていくさ中、最後発としてホテル松本楼は出発したのだ。当然、他のホテルと同じことをしていたのでは差別化が図れないし、軌道に乗るまで大変な苦労をしたことは想像に難くない。しかし、由起さんはそんな父母の苦労を見ながら育っても、家業を少しも嫌がらない、妹とどちらかが女将になって旅館を継ぐかで口論になって、じゃんけんで勝って家業を継ぐことになったいう面白いエピソードを持つ。普通、この手の仕事を親に持つ子供は、時間の不規則さや世間の人と休日が合わないことを嫌がって、家業を継ぎたがらないものだが。「洋風旅館ぴのん」は由起さんが「27歳の私が泊まりたい宿にしたかった」という、ペンションでもなければプチホテルでもない、浴衣でくつろげる日本風旅館と英国風のプライバシーの尊重を併せ持った洋風建築のユニークな旅館だが、これも若き日に英国に留学して時の経験から来ている。洋食のシェフであった祖父は英国が好きでよく渡欧していたそうだから、血は争えないのかもしれない。そのとき働いたイギリス、コッツウォルズの400年の歴史があるホテル、The Lygon Armsに魅せられ「いつかThe Lygon Armsのような宿を自分でやりたい」との夢を抱いて由起さんは日本へ帰国した。ただ、ここで由起さんも跡取りの誰もがやらかす対立を引き起こしてしまう。会議でも根回し無しで納得できないことははっきりと主張し、二言目には英国ではこうなっていると、と斬新な改革を提案するが、当然全従業員を敵に回してしまい、ストレスからアトピー性皮膚炎になってしまったということだ。しかし、両親は決して娘を見捨てることなく、O157騒動で経営危機となった会社の再建の切り札として、由起さんに新しい「洋風旅館」のオープンを任せたのだった。支配人以下社員全員反対されたが、1997年にオープンした「ぴのん」は、当初の目的であった年商5,500万円の2倍の売上を出し、4年連続毎日満館という結果を出したという。私もこの日の宿泊は「洋風旅館ぴのん」は、格調高い中にも浴衣で出入りできる気楽さもあり、中々他にない宿泊施設で、是非、今度は誰かと行けたらと思わされた素敵な宿舎だった。この日は、ホテル館内の案内は奥さんの由起さんがしてくれて車いすの方もそのまま利用できるバリアフリーのユニバーサルデザインを取り入れたつくりに素晴らしいなと感慨を抱いたし、その後の講演は夫の松本光男社長が行ったが、その中で最も時間を割いて述べられた体験談は、85人いた社員のうち、実に30人が半年の間に2012年の大量離職だった。これが生涯最大の逆境だったという。しかし、光男さんは2008年に松本楼に入社したばかりで全く結果も実績もない状態かもしれないが、由起さんはすでにユニークな試みを成功させている若手後継者として、実績と経験を積んでおり、内外で注目されていたのだ。それが本格的に後継として腕をふるおうとして、「売店や調理場が忙しかったら、その時間だけ手の空いている他部署の人が手伝うという社員が一人何役もこなすマルチタスク化」を発表すると、ベテラン社員たちが猛反発し退職者が続出したのだ。旅館で働く人たち独特の職業意識が新しい仕事の進め方を理解してもらえなかったというわけだが、いっぺんにこれだけの人が抜けたのだから当然仕事は多忙を極める。補充の人材を雇っても、社内の雰囲気はギスギスしていたので雇うそばから辞めていき、伊香保温泉中に「松本楼はもうすぐ潰れる」という噂が広まったという。そんなとき、尊敬している倫理法人会の先輩が松本楼へ泊りに来てくれて、悩みを聞いてくれた。先輩は「辞めていった人たちを恨んでいますか?」と尋ねたので松本さんは「恨んでます」正直に答えた。辞めた社員は辞める際は新人まで引き抜いて伊香保温泉の別の旅館に行ったのだ。しかし、先輩は言う。「だったら、二人だけしか残らなくなるよ。辞めていった従業員さんを恨むのではなく、今までの働きに心から感謝してください」尊敬する先輩のアドバイスなので、最初は嫌々ながら毎晩彼らに感謝の言葉を述べるようにした。続けるうちに彼らが懸命に働いてくれていた姿が思い出され、2週間ほどたつと辞めていった人たちへの感謝で心が一杯になり、最後は二人して泣いたという。それから、1箇月2箇月とたち、社員の退職が止まったそうだ、社員たちに接する態度や言葉遣いなどが変化したのだろう。その年採用した全ての新入社員がその時の辞めたので、問題点を改善したかったので、彼らを訪ねて退職理由を聞くと、「先輩たちの指示が個々人バラバラだったのでどうしていいか分からなかった」ということだったので、一人の新人には一人の先輩が教育担当として付く「エルダー制度」を設けたという。大量の離職者を生んだ「社員のマルチタスク化」も一時封印したが、新入社員はそののちは違和感なく受け入れてくれたので、結果的にそのようになっていったということである。社員をたいせつにする経営をおこなう一方、「旅館甲子園」にも社員を挑戦させてファイナリストに2年連続残ることができ、満を持して2016年、光男さんは社長に就任した。社長就任当初は、順調にいっていたがここで2020年にコロナ禍に遭遇する。しかし、決して悲観的にはとらえず、これまで外部研修など取り組んできたが、旅館で営業している限り全員での研修は不可能だったのが、それが出来ることになったのだから大チャンスだと思ったそうだ。社員には雇用と給与の補償を明言する一方、2カ月間月曜から金曜までフルに全員研修に費やしそれを「松本楼学校」と銘打った。結果、全社員の意識を高めることにつながったという。辞めていった社員に対する感謝の涙のくだりは、あゆみシューズの徳武産業の十河会長が先代社長がなくなった後、古参社員や義母との仲が悪くなり、そのときの思いのたけを住職に話したところ、「先代と張り合おうなどと思わずに先代に感謝と反省をしなさい」と言われ、先代を意識するあまり必要以上に古いやり方を否定してきたのではないかと気付き、まずは毎朝仏壇に座って先代を供養することからはじめたところ、次第に関係が良くなっていったという話を思い出した。「魂が浄化される瞬間」というものがあるのだなと。この日の夜は松本楼での今回の壺中100年の会参加メンバーでの懇親会であったが、料理は一般的な和風懐石といったものよりは創作料理風の独創的なもので、食べて美味しく説明も興味深かった。松本夫妻も接客係の社員さんの心遣いで、実に気持ちのいい時間を過ごさせてもらった。食事の後はこの旅館の名物「黄金の湯」と「白銀の湯」につかり、リラックスした。翌朝の社員さんたちとのクロストークは私は都合で中座したが、人本経営企業に共通のしっかりした受け答えと、会社愛に溢れた若い彼らを見て、心の中で「頑張って」と声援を送った。現在色んな工夫をして経営をおこなっておられるのだが、それを書ききれるはずもなく、松本家4代に渡るヒストリーをたどってなぜ今の在りようになったかを調べるのが面白くて、読む方はちょっとあてがはずれたかもしれない。ご容赦ください。27日の懇親会前の少し空いた時間に石段街を散歩したが、伊香保神社へ続く365段の石段から遠景を見渡すと、山に囲まれたこういう風景も悪くないなあと思える。今は高度成長期が絶頂であった風な感じを漂わせているが、もっと観光地としてのポテンシャルはあるのではと思える。また、機会があれば来て宿泊してみたい、心からそう思えたおもてなしでした。松本社長、奥さん、従業員の皆さん、大変お世話になりました。ありがとうございました。