11月10日の後半のベンチマークは、福岡県大野城市にある株式会社障がい者つくし更生会。
坂本光司先生の著書「日本でいちばん大切にしたい会社4」でも取り上げられている。
社員の8割以上が障がい者ということで、レジェンド企業の日本理化科学工業も顔負けの会社なのだが、
この会社の概要を上記の「いちばん大切にしたい会社4」から抜粋してみよう。

この会社の創業者は小早川茂夫さんという方で、20歳の時兵隊に召集され終戦と同時にシベリア抑留、
飢えと栄養失調に苦しめられながら何とか生き延び帰国したものの、肺結核に罹ってしまい闘病生活は10年にも及んだ。
病気は完治したが、肺病上がりの身体障がい者を雇ってくれるところなどなかったため、
ラジオ修理の技術免許を取得し「小早川電気商会」という個人会社を立ち上げ、必死に働いた末に何とか会社を軌道に乗せ、家族を養うことができた。
そんな小早川さんは常々自分も病気のために就職できなかった経験から、自分のような苦しみや辛さを障がい者に味わわせたくないと思っていたが、
昭和58年に福岡県の春日市と大野城市で不燃物の処理工場を作る計画があることを知った小早川さんは、すぐさま工場を障がい者の団体にやらせてほしいと市にかけあい、受け皿会社の設立に奔走した。
当時の大野城市、春日市の両市長は、障がい者に不燃物を処理を任せたら危険じゃないか、万一事故になったら誰が責任を取るのか、など多くの反対のあるなか議会を説得して、小早川さんたちに仕事が委託できるよう動いてくれた。
1年後の昭和59年に株式会社発足、1年間の訓練期間を経て、障がい者7人、健常者4人で不燃物処理工場の操業運転が開始された。
しかし、経営は決して順風満帆だったわけではなく、当初は資金繰りに苦労し、平成8年3月には、障がいのある社員の一人が工場のベルトコンベアーに巻き込まれて亡くなるという労災事故も発生した。
会社をたたむことも覚悟した小早川さんだったが、事故をきっかけに安全衛生委員会を設置し、社員一丸となって安全基準を徹底して、この危機を乗り越えていったのだった。
今では健常者が運営する廃棄物施設でさえ爆発事故はしばしば起こるのに、こちらでは一度も起こっていないほど社員の安全に対する意識は高まり、給与も障がい者の最低賃金の適用除外をしている社員は一人もいないという稀有な会社となっている。

まずは会社の現場見学をさせてもらったが、働いている方々はとても障がい者に見えない、普通に仕事に関しての説明などしてくれたことだったが驚きだった。
巨大な破砕機械も見学者を間近まで寄せて見せてくれたが、
他所ならそこまでのことはしてくれないだろう。

見学の後、那波専務から会社の歴史や理念などについて伺ったが、会社の設立趣旨は「障がい者が自ら雇用の場を創造・開拓し
以て障がい者の自立更生を図る」ことであり
「営利の追求を第一の目的としない株式会社」であること。
会社の使命は「障がいがあっても、物心両面の環境が整えば、一人前の仕事ができる。
障がい者と健常者は一体となれる。それを証明し、伝えること」だということだった。

障がい者は高度成長時代のように、座して行政の福祉サービスに甘えているのではなく、企業の側も助成金をもらうための道具としたり、これ幸いと最低賃金の除外認定を受けてただ同然の賃金で働かせたりするのではない、
障がい者自身が自ら努力して更生の道を切り開いていく、
設立時のこの考え方がどれだけ崇高で眩しかったことか、
しかし、そのためにはどれだけの努力がなされてきたことだろう。
那波専務も「障がい者が一生懸命仕事をするだけでは契約の継続はない」はないと、
シビアな見方をしており、見学中も従業員を甘やかしているといった雰囲気はなかった。
実際、多くの社員が廃棄物処理技術管理者、防火管理者、フォークリフト運転者などの資格を持っており、
その道のプロとして働いている。
ただ、「いや、そこそこでいいんですよ。もちろん絶対守らなければいけないラインはあるけれど、
それさえクリアしていれば、なあなあで構わない、上からは叱られるけど」
と言っていた健常者の管理職の考え方は私は正しいと思う。
ある程度ゆるみの部分を作ってあげないと、ハンデのある彼らは追い込まれてパニックになるだろう。

那波専務も今回のベンチマークの打診があったとき、
大病をされ死を覚悟さえしたというが奇跡的に回復し、今回受け入れが可能となった。
軌跡のような素晴らしい会社と事業に携わっている方々にお会いできたことは本当にラッキーだった。

所用があり夜行バス日帰りという強行スケジュールであったが、大して疲れは今でも残っていない、
充実した1日だった。
小林先生と今回地元でお世話してくださった猶崎さんに
あらためて感謝します。ありがとうございました。