恋愛は魔物。ただ慣れとは恐ろしいもので、その魔物とも顔なじみになってしまえば非日常が日常に成り下がり、夢にまで願って手に入れた幸福がデフォルトになる。レアキャラが「いつメン」、果てはいつしか嫌悪の対象まで降格するとは、初期段階では誰も予想もできないのです。嵐が過ぎてしまうまでは。これは嵐が嵐のままパッケージされたようなお話です。
前編は予備校の7月までのいきさつでしたが、後編は一気に翌年2月まで時はすすみます。
不合格と合格の先に…
恋愛感情はもしかすると麻薬のような働きをするのかもしれない。切迫する厳しい現実を直視することから、自分の問題意識を遠ざけてくれることを、無意識に期待していたが故の恋慕がこれだったとしたら、とことん自分は狡猾なヤツだと思う。
自分の悪い癖として、とにかくガムシャラにやっていればいつかうまくいく、とどこかで信じてしまっている。実はそれが効率悪すぎて貧乏くじばかり引いているのに方針変更ができないでいるだけ、なのがなんとなく分かっているのに。
受験浪人生故の、何のイベントもない12月を経て新年を迎えた。そして奇跡を期待した共通一次も、マークミスという失態にトドメを刺された感があった。ずっと志望していたのは、私の住む地方では一番の難関校であったので、一次が万事、実力からして逆転はほぼ不可能という状況の中、それでも挑戦は諦めたくないと言う効率の悪さが宿痾の如く自分の判断を支配していた。私立(2部)を1校は受けることにして、国公立はその難関校に願書を出したのである。
ほぼ負け戦である。それなのになぜ、微塵も志望校を変える気が起きなかったのか。それは自分の性格もあるが、大きいのは「Nさん」も同じ大学の同じ学部を受けるからである。
昭和60年2月末。国公立大学2次試験があった。そしてその試験において予想もしない奇跡が起きた。と言ってもE判定が覆ったわけではない。何とNさんの受験番号が自分の前、つまりオレの前の席がNさんだったのである。
試験当日、早めに会場入りし先に席についていたオレの前の列に、窮屈そうに横向きになって女性が入ってきた。それがなんと彼女であった。あっけに取られていると彼女と目が合った。「あっ」と、彼女が先に小さくつぶやいた気がした。小さく会釈をして彼女は、俺の目の前に座ったのだ。
同じコースを受講しているのだから顔くらいは知ってくれていたのだ。そういえば出願書類を郵便局に持っていった時、彼女が友達と一緒に出てくるのとすれ違っていた。我々の願書は、重なって大学に届き連番で処理されたのだ。瞬時の妄想は雨後の筍の如し。大学の座席は横に長く、前の席の椅子が天板と一体化している。目の前に彼女がいて、いつか気づいた香水か何かの匂いがする。手を伸ばせば届く距離である、伸ばせるわけはないが。オレは我を失いそうになった。
細部の記憶は既に定かではないので、途中何があったかなかったか、昼食休憩の時どうしたのか、正直覚えていない。ただ試験の出来は散々だったのは間違いない。3科目(国語、英語、数学)とも手応えはなかったのでそれはもうどうしようもなかった。それより試験終了後になんとか彼女に話しかけられないかどうか、最後はそればかり考えて胸が高鳴っていた。現実逃避と言われても仕方ない。
試験の終了を告げる声が試験監督からかかった。解答用紙の回収があり、皆が帰る準備を始めた時、Nさんが先に席を立って横向きになった。自然な感じでオレは彼女を見上げて、朝よりも長く目と目が合った気がした。心臓が口から飛び出そうな高鳴りを抑えつけて、オレは「やっと終わりましたね」と彼女に話しかけることができた。彼女は微笑んで(確かにそう見えた)「ホントだね」と返してくれた。
一緒に教室を出たはずであるが、何を話したのか残念ながら記憶がない。その後彼女は友達と合流し、なんとその輪に誘われて大学から結構距離のある駅までの道を歩いて行くことになった。話に入れない自分は集団から少し離れてついて行ったが、彼女は時々オレのことを気にしてくれていた。集団は行きつけの喫茶店に寄ることになったようで、お呼びでないオレだったが、なんと彼女がオレを見て「一緒行く?」 と声をかけてくれたのだ。行かなければ後悔すると確信して、誰とも話ししたことのない集団に加わった。結局オレを入れて4人で店に入りボックス席に。社交性はなくはないはずの自分だったが状況が予想外過ぎて、案の定借りてきた猫状態であった。彼らは結構テストが解けた感じの話をしていた。微妙な空気感のまま喫茶店の時間は過ぎて、「みんな受かってるといいね」が締めの言葉となりそこで解散となった。ほとんど話せなかった(話せてもチンプンな内容)ことで落ち込んでしまったオレは、店を出た後に彼女にさらに声をかける勇気が出ずに自分の下宿の方に歩を進めてしまっていた。
なんと情けない。これで全ては終わりなのだ、オレは受かるはずがない。そう思いながら一人歩いていた。でもその時、今日の出来事を思い起こしてみて、これまでの自分の思いと、奇しくも受験番号が前後していたこと、会場で彼女がそれに気づいた時、つまりオレをみた時の驚いたような表情がすぐ笑顔になったことを思い返し、これで終わることはできないと考え直した。今思えばストーカーの要素もあったかもしれないが、もう一度あって自分の想いを伝えたい、いやそこまで考えられてはいなかった。会いたいだけだったかもしれない。伝えたところでどうなるなどと考えてもいなかったのだから。
オレは踵を返して道を後戻りした。そういえば喫茶店の話の中で、彼女はこのあと見たかった映画を見て帰ると言っていた。その頃まだあった「名画座」だったような気がして、急ぎ足で向かった。
映画館に『上流社会』という映画の看板。確かそうだった。入場料を払い暗い場内に、勇気を振り絞って入っていった。映画館は客の入りはまばらで、映画自体も始まって間もない様子。上映室内もそんなに広くない。端っこに通路があるので、彼女を探しながら前の方に行くと、ちょうど真ん中ぐらいに彼女がいた。すぐに目が合った。「えっ」という顔をしていた。少し心配していたほかの誰か(男)といるわけではなかった。両隣は空いていたので、迷わず隣の席に滑り込むように座った(カッコよくではない)。「どうしたの?」と聞く彼女に「自分も見たくなった」とか何とか言った時、彼女はにっこり笑ったように見えた。「この映画、前から見たかったんだ」と彼女は言った。映画は好きだったが、オレはこの映画のことを全く知らなかった。後から知ったことだが、ビング・クロスビーやフランク・シナトラ、グレース・ケリー、ルイ・アームストロングらが出ている、ミュージカル風の映画だった(これ以降東京で何度かリバイバル上映を一人で見に行って知ったこと)。
その時は映画のストーリーなど、ほとんど頭に入らなかった。時折何か話をしたような記憶もなく、ただ無言で最後まで映画を見ただけで時は過ぎた。愛を語る主人公に自分を重ねる余裕も当然なく、映画館を出た後どうするかばかり考えていたような気がする。映画はサッチモ(ルイ・アームストロング)のお茶目なセリフで終わりになった。最後のクレジットまで見たあと、二人は無言で席を立って、映画館の外に出て顔を見合わせた。映画のストーリーそっちのけでシミュレーションしていたセリフなど一言も出てこず、またまた挙動不審なオレに、彼女は「電車まで時間あるから、お茶飲も」とイニシアティブを取ってくれた。歩きながら映画の話とか、好きな音楽の話とか(オレはその日の夜、某バンドの解散コンサートに行く予定だと言うと彼女はなぜか喜んでくれた)、他愛もない話をした。結局、喫茶店でも何か決定的なことなど一言も言えなかったのだが、彼女は表情が豊かで、オレよりはるかにオトナの雰囲気や感性があることが分かった。そしてそれが、彼女は実は二浪していたことからきていることが分かった。そのことについて彼女も詳しくは言わなかったし聞きもしなかった。いつも元気な陽気さの裏につらい思いを抱えていたのだろうか、と後になれば思う。
電車の時間にて二人は別れた。別れ際に「ホントお互い受かってるといいね」そう言ってくれた彼女に「ホントそうだね」としか言えなかった自分が情けなかった。ただそれ以外のことを、今の自分であっても言えるのかどうかと考えると、それは不可能のような気がする。あの時の自分はあれが精一杯だったし、彼女も垢抜けない田舎者に誠実に付き合ってくれたのだと思うと、何ものにも代えられない大切な思い出だと感じるのだ。
後日合格発表の掲示板をこっそりと見に行った。やはり自分の番号はなかった。これによって私立大学に行くことが決まった。それに結構安心したというかホッとした感があった。ただそんなことより、掲示板に「自分の前の番号」は確かにあったことを確認できたのがうれしかった。できれば会いたい気持ちはあったが、それは2人とも合格していた時だけにしようと、試験後私立の合格が分かってから決めていた。Nさんと知り合って、微妙だけれど2人だけの思い出を作れたこと、2人だけの約束を交わしたこと、それだけでも十分幸せだと感じたのである、その時は。
それ以降Nさんとは会っていない、という訳ではないことを今は言わずにおきます。これにて後編終了「エンド オブ ストーリー」です。