文化の中に馴染んで生活の一部になっているもので、ではそれが元を正せばどういう意味だったのか?ということを正確に理解することはとても難しいことだと常々感じています。

 

長い歴史の中で、それがどのように伝わり、どんな影響を受けて、或いはそれがどのように変質していって、我々の文化の中に根差しているのか。たとえば、いつの間にやら、それは表層化、形式化していって、その真相を知ることなしに儀式化して繰り返しているだけかもしれません。良い面も悪い面も含めて、正当に評価することの難しさといった問題があります。

 

日本における仏教も長い歴史の中で権威主義化していき、お釈迦様が神格化されることによって、それが欧米のようにときの為政者によって利用され、政治的に人々の思考的自由を制約するといった歴史がありました。インドから中国を経て日本に伝わる中で、サンスクリット語が漢訳され、その中で意図的な誤読や意味付けがなされ、儒教の影響を受けて身分制度や男女の差別意識が盛り込まれていったというのです。

 

しかし原始仏教では政治とは無縁でした。仏陀は絶対神ではなく、修行を通じて悟りを開いた人が仏陀となるのであって、そこには身分差別も男女差別も無く、迷信やドグマといった呪術信仰を排除し、執着心を捨て、ひたすら「真の自己」の追究をすることこそ、迷妄や苦から解放され、一切の我は無くなり自己は宇宙の真理となるという考えがあったといいます。

 

原始仏教の考え方からすると、現代において、我々がお葬式のときに意味がよくわからないのにお坊さんに読経してもらってそれを有難がっていたり、お坊さんに故人の戒名をつくってもらったり、お参りで個人の願望を願ってみたり、、そういったことは真理の追究よりも儀式の形骸化の中で生まれてきたものであると言えるでしょう。

じつはこれらは中世になって行われるようになった風習であって、お寺の権威主義化の中で檀家制度を制定し社会システム化していく中で習慣化されていったことだというのです。

 

ちょっと話は飛躍しますが、いま話題の憲法改正議論について。憲法の原文は英語ですので我々の憲法はそれを和訳したものということになります。

そもそも、平和を愛する諸国民がいるという前提のもとで我々は永久に武装解除します、と誓った憲法前文が既に矛盾していることは明白でしょう。ある平和を愛する諸国民は地球を何度も破壊出来るほど圧倒的な武力を誇示していますし、ある平和を愛する諸国民は独裁者を許し自己の権益の最大化しか興味がありません。

 

その憲法の根本的な矛盾を解消するために、より創造的な憲法改正議論があって然るべきで、我々はフリーハンドで、よりよい平和憲法とすることもできるでしょうし、より現実的で没個性的な憲法にすることもできるはずです。

 

しかし、こういった嘘偽りがまことしやかに横行し、それを絶対神のように有難がっているという矛盾に異議を唱えてこなかったということが、我々が「真の自己」を追究するという自己研鑚を怠ってきた証拠であるのかもしれません。

このような嘘偽りの社会では、いくら学校からイジメを減らそうと思ってもイジメは減らないし、親殺し子殺しは増え、倫理観が欠如した社会の先には堕落と衰退が待っているような気がします。

 

悪い面ばかりでなく良い面をいえば、もちろん仏教における平等意識やフェアーな精神といった美徳も日本人の文化の中にまだ残っており、世界に対してもっとアピールできることも沢山あるのではないかと思います。他者と譲り合う共存共生の精神、奥ゆかしさこそ、いま世界に求められているはずです。

 

現代の日本の仏教をお釈迦様がみれば何と感じるのでしょうか。。