今回は私の頭の中でひらめいた哲学的な思考について綴ります鉛筆

(※あくまでも100%哲学的な世界での発想である事をご了承いただきたいと思います。)



~カギ~



私はつくづく人の

『認識』

というのは相対的な要因で成立していると感じています。


例をあげましょう。


ある人が毎日タバコを何十本も吸う長年の習慣で肺がタバコの成分によって病気になり死亡したとしますね。

当然、死亡した原因は毎日タバコを何十本も吸っていた事ですよね?

ところが、もし人類全員が同じようにヘビースモーカーでそれが当たり前の習慣だとしたらどうでしょう?

死亡した原因は寿命という認識になる可能性があると思いませんか?


別の例をあげてみます。


もし人間にとって争い事というのを昔から感情的に暴力で解決する事が普通の事として認識されていたら、今日、誰かに暴力で大怪我を負わせたとしても事件ではなく、よくある事と認識されてしまうと思います。

逆に人間に怒りという感情の機能が全くなく争い事などが全くないような皆が毎日笑顔で生活しているとすれば、当然それが普通の認識になるわけですから無表情の時があれば、それだけで異常な事と認識される可能性があると思います。


最後に究極の例をあげてみます。


今後、想像をはるかに越えるスピードで科学が発達し人類が皆、空を飛べるようになったとしますポーン

当然これは素晴らしい事であり誰もが感動すると思いますキラキラ

しかし何十年、何百年もたてば今はどんなにスゴい事であっても普通という認識になるのではないでしょうか?



以上の例のように『認識』についての考えを通して私なりに思った事は以下の事です。



どんな事であっても、それが続けば遅かれ早かれ良くも悪くも普通という認識になっていく…

とすれば、例えそれが人の幸せや不幸に繋がる事だとしても本質的な事は

それによってもたらされる幸せや不幸そのもの

よりも

どのように変わっていってどのように感情や理性などが生まれるか

といった事ではないか左差し






2019年

風水では

変化

が開運のキーワードであるようだ!

良い変化を起こす年にしたいキラキラ音譜



と思うこの頃であります。