道草  一 はじめに | 『清流』 無明橋 Ⅲ [2017年7月-] | 中高年の子守唄 | 太平洋を越えて | 日曜版 読者だより

『清流』 無明橋 Ⅲ [2017年7月-] | 中高年の子守唄 | 太平洋を越えて | 日曜版 読者だより

『清流』 - 太平洋を越えて - 2011年夏、カナダ・アメリカ旅行記ーー ヴァージニア州に住む友人夫婦に誘われ、バンクーバー、カナディアン・ロッキー、ナイアガラ、ヴァージニアと気ままに旅した13日間の旅行記

2005年10月9日 (日)

清流 | 道草 | sk5132 | 01 読んでいて肩の凝るような「無明橋」がようやく終わったと思ったら、今度は「道草」―――
「何?それ。おかしな題(タイトル)じゃなあ」
と思われた読者も多いに違いないが、これからしばらくは「読んでリラックス(癒し)できる話」を書いていきたいと考えている。
「リラックスはいいとして、それが道草とどういう関係にあるん?」
と、問われそうである。感のいい人は、「どうせ脱線話かなんじゃろ」と察知してくれるであろうが、そういうふうに思っていただいていい。
 ところで、そもそも「道草」とは何か。普通には、「道草を喰う」という言い方をして、「よくない」ことの意味で使われている。荷車を引く馬や牛が、道端の草を食べて先へ進まない状態が語源になっているようだが、辞書には、「通学や使いの途中で、他のことに気をとられて遊ぶ」とか、「本来の目的から外れて、途中で手間取る」と解説している。いずれにせよ、よくない言葉の部類に入っている。
 一般的に悪い言葉として使われる「道草」であるが、「道草を喰う」ことほど面白いものはない。荷車を引く馬や牛は、親方に、ろくに飼い葉も与えられずにこき使われて、空腹に耐えきれずに道草を喰っているのだろうが、人間の喰う「道草」は、馬や牛とはずいぶん喰い方が違っている。それでは、人間はどこで道草を喰っているのか。辞書には、通学やお使いの途中を例に挙げているが、仕事の途中で喰ったり、勉強の最中に喰う人もいるだろう。中には、「人生そのものが道草」という人がいるかも知れない。
 どんな場面で道草を喰うか。また、どんな中身の道草を喰うか。考えただけでも楽しくなるし、道草を喰うことがどういう意味を持っているかを考えると、興味は尽きなくなってしまう。少年時代を振り返ってみて、そのときは道草など思いもしなかったろうが、よく道草を喰ったものだと思う。困った?ことに、大人になってからまでも喰っている。ついでながら、「清流」も道草だらけである。歩いている道端の草を喰うだけならまだしも、わき道に入り込み、変な寄り道をしてまで喰っている。
 馬や牛、それから人も、なぜ道草を喰うのか。答えは、道草が美味(うま)いからである。ふだん食べない変わった味がするところもいい。一度道草の味を覚えると、「次はどんな味に出会えるやら」と、もう止められなくなってしまう。道草とはそういうものだから、親方は、馬や牛の目が道草に向かないように脇目を覆(おおい)でふさぎ、学校の先生は、子どもたちに対して、あの手この手の方法で「道草を喰うな」と口酸っぱく指導している。
 道草を喰うことを「悪」として教える学校の指導は、それが正しい場合もあるが、どちらかというと、子どもたちには大いに道草を喰ってもらいたい、と思っている。道草を喰うことによって、学校で教えてもらわないたくさんのことに気付き、学校では出来ないたくさんの経験を積んでもらいたいと思う。そうやって、興味や感心の幅を広げ、好奇心や探求心を養ってもらいたいと思う。
 どうも、話が「無明橋」の続きのようになってきたが―――― 「清流」でこれから書こうとしている「道草」は、どういう中身のものになるのか。始めの方で、「脱線話と思っていい」と書いたが、四季折々の身近な出来事や話題をもとにして、あまり気負うことなく、読む人のリラックス(癒し)になるようにペンを走らせたい、いやキーをたたきたいと考えている。
「それで、いつごろまで道草を喰い続けるつもり?」
 そんなふうにも問われそうだが、それについては、今は確かな見通しはない。四季をひと巡り終えるぐらいかな、とおぼろげに考えている。
 ―――― 新しい題(タイトル)になって前置きが長くなってしまった。そういうところで、まずはどこで、どんな道草を喰うかだが…… 。
 秋の夜長、という言葉がある。寝床に入るには早い夜長のこの時期、囲炉裏端やこたつで聞くのにふさわしい話から始めようと思う。
「トトロに遭(あ)ったことがある」
と、全校集会で話したら、「うっそー」という言葉が大音響で返ってきた。