浅田真央とキム・ヨナは同じ年の同じ月生まれということもあって、よく比較対象にされていました。
ただ、2人の目指すところは全く別のものだったと、勝負が終わった今、そう思うのです。
キム・ヨナはとにかく勝つことに拘りました。
何年も演技構成はほとんど変えず、自分の得意とする技の完成度、表現力を磨き続けて、いかにして勝負に勝つか、ということに重きを置いていたと思います。
結果が全て、勝たなくちゃ意味がない、そんな印象を受け続けていました。
彼女の目的は、韓国フィギィア界に革命をもたらし、冬季オリンピックを招致すること。
韓国フィギィアの歴史を作り、自身がその主役になることだったと思います。
浅田真央が目指したのは、アスリートとしての高み。
最上級の技を、決められた時間内でより美しく飛ぶ。
本来のフィギィアスケートのあるべき姿、その最頂点を目指し続けました。
それは、茨の道でした。
度重なるルール変更、その度に演技構成を変え、飛び方を変え、それまであったものを崩し、より新しく、より高みへ。
だからこそ、誰も到達しえなかった高みへ、彼女はとうとうたどり着くことができたんだと思います。
3Aを跳びこなし、難度の高いジャンプ8種類を跳べる選手は彼女だけです。
とうとう、歴史を作りました。
私はこの2人のストーリーをずっと見てきて、ある1人の黒人選手のことを思い出しました。
抜群の身体能力を持ち、4回転ジャンプ、バク転をこなしたスルヤ・ボナリー、という選手です。
私が小学生のときオリンピックに出ていた選手なのですが、記憶に強く残っています。
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1991年の世界選手権では、女性では世界初となる4回転ジャンプを成功させる。当時は、伊藤みどりが三回転半を跳び革命だといわれていた時代だが、スケート連盟からは回転不足と判断され、表現力も乏しいと5位に終わってしまう。
それ以降も4回転にチャレンジし続けていたボナリーだが、何かと芸術性が低い、あれはスケートではないと揶揄されてしまう。「もう4回転を跳んだって誰も評価してくれない」と嘆いたボナリーは、4回転を封印。必死に表現力を磨いた。
ちなみに、4回転は11年後に安藤美姫が飛び、それが女性初の4回転ジャンプと認定されている。ボナリーの4回転は幻のジャンプとなった。
その後、1994年の世界選手権では、なんとしても自分の実力を認めさせたいと、現在でもほぼ男子でしか見られない連続ジャンプを成功させる。し かし、優勝したのは派手なジャンプはないものの、軽やかなステップや表現力を評価された佐藤有香。採点に納得がいかないボナリーは、2位の表彰台に上がる のを渋った上、泣きながら、首にかけられたメダルを外してしまう。
そして、これまでオリンピックでは5位、4位と苦汁をなめたボナリー。1998年の長野オリンピックが最後になるだろうと言われたが、ケガで長期 療養しており体がついていかず、得意のジャンプでもミスが目立ってしまう。それにしても得点が低過ぎないかと問う記者には、「もう慣れたし泣きつかれた」 と応えた。
しかし、せめて自分らしく終わる為、ある決断をする。突然、演技終盤で危険なため公式戦では禁止されている、後方宙返りを披露したのだ。皮肉に も、誰にもマネできない大技に会場は歓声をあげた。しかし禁止技を行ったことで得点は低く、10位という結果に終わる。この大会後、ボナリーは競技生活に 終止符を打った。
抜群の身体能力、技術力の高いジャンプを持ちながらも不遇の選手時代を送ったボナリー。
試合後、ボナリーは『審判よりも観客にスケートを楽しんでもらいたかった』と語りました。
誰かが言います。
「浅田真央も、金メダルが欲しかったらもっと簡単な技を、より美しく跳べばいいのではないか」
「3Aに拘って自滅している、自分を追い込んでどうするんだ」
本当にそうでしょうか?
彼女の目指す高みは表彰台のてっぺんだけ?
思い出してください。
フィギィアスケートは確かに表現力、音楽との融和、美しさ、そういった人間の感覚で感じる、点数にするには曖昧な部分も確かに重要です。
しかし、フィギィアスケートはスポーツなのです。
フィギィアスケーターは表現者であり、アスリートなのです。
決められた時間内で、どのような構成で、より技術力を要する技を何度跳べるか、本来はそれを競う競技であったはず。
オリンピックには「アイスダンス」という、より表現力を重視する項目も存在しています。
フィギィアはスポーツ寄りであるべきだと、私は常々思っているのですが、ISUはいつも不可解なルール改正を行ってきました。
より審査員の感覚頼り、不確かでわかりにくい採点基準---------。
不正があってもこれじゃあ誰にもわかりません。
審査員が「彼・彼女の方がより美しくみえた」と言えば、それが基準になるのです。
あの時代、オリンピックの表彰台になぜ黒人選手が登れなかったのか、考えてみてください。
浅田真央はいつもそれを飛び越えようと努力を続けました。
フィギィアスケーターにとって、体型を維持するということはとても重要なことです。
大好きな焼肉も思いっきり食べられない、より軽やかに跳べるように。
低体重を維持し続け、体を冷やし続けるということは、女性にとっては危険なことです。
将来子どもが生めなくなる可能性もある。
それを承知の上で、アスリートとしてあるべき姿を保ち続けた。
表現者としての自分も磨き続けました。
十台、二十台前半という、その大切な時期に。
感服いたします。
本当に、おつかれさまでした。
ステキな夢をみさせてくれて、ありがとう。
心からの祝福を。