昨日から認知症のケアについての本を読み始めた。

その中にBPSD(認知症の基本的な症状によって引き起こされる様々な精神症状や行動障害、いわゆる一般的に困った行動として受け取られるもの)についての記述があった。

 

このBPSDの面白いところは、認知症だからと言って必ず強く出るとは限らず、適切なケアによって軽減があるという点だ。

 

「適切なケア」は技術面以上に、相手に対する理解や歩み寄る精神的態度を持てるかどうかが最も重要な点となっている。

その反対は、力によって「問題行動」を押さえつけるという方法論だ。

極端な例としては、徘徊する傾向なある人を閉じ込めるとか、勝手に立ち上がると危険だからベルトをするとか、鎮静作用のある薬を必要以上に使用するなどだ。

こうした手法は、近年医療の世界でもかなり見直されてきており、上述の例はかなり極端なものだが、要するに、「問題は力ずくで押さえつけるしかない」「その方が効率的」という考え方が背景にある。

 

しかし、近年ではBPSDにはそれを引き起こす理由がきちんとあり、それを理解して対処する事で、最初は時間や労力がかかっても徐々に症状が軽減し、結果的に時間や労力が少なくなるという事が分かってきている。また、力ずくで抑えようとすることによる反発から返って症状を悪化させ、もっと重大な問題が引き起こされるケースが多数報告されているという。

単純な精神論を超えて、従来の方法論を正当化してきた根拠が崩れてきた事は、今後の医療や介護の質を高める上で望ましい意識の変化だ。

 

 

ところで、この下りを読んでいて、自分の身体や心に現れる色々な症状も同じようなものなんじゃないか、と思い当たった。

僕らは往々にして、自分の体に現れる不快な症状を認めず、否定し、外的な力(薬など)によって強引に消し去ろうと考えがちだ。そこには、不快な症状はただ不快で否定すべき存在だ、という決めつけしかない。「その痛みはどんなメッセージを自分に送っているのか?」「その症状は自分に何を訴えているのか?」など考えもしない。力ずくの押さえつけがさらなる問題の引き金になる点も大変似ていると感じる。

ガンなど難病をを克服した人の話を読むと、それを機会に自分を見つめ直したり、受け入れて開き直ったりする態度がよく見受けられる。

 

自分の身体の「困った事」に対してどう向き合うのか?

恐らくその鍵は「相手に対するより深い理解」だ。

分野は違うが相通ずるものを感じた。