日本刀の伝説①

テーマ:

讃岐で 『にっかり青江』 の特別展があるそうなので


こちらでも、伝説や曰くのある日本刀のお話を


書いてみようかと思い立ちました。


一回目は、まぁ、タイムリーなので


『にっかり青江』




にっかり青江(重要美術品) 


時代 鎌倉末期~南北朝期


大磨上げ無銘 金象嵌名 羽柴五郎左衛門尉長


刃長 1尺9寸9分


体配 鎬造  大鋒伸びる 

    身幅広く 地鉄板目良く詰んで精美


刃紋 匂出来 匂口締まる

    直ぐ調に湾れを交え 逆丁子を見せる


帽子 乱れこみ突き上げて返る


彫物 棒樋を掻き通す




江州(近江/滋賀県)の八幡山下に女の妖怪が現れるとの

噂これあり。


中島九埋太夫が夜道を歩いていると


不気味な笑みを浮かべた女が、子を抱き抱えており


中島に「この子を抱いてくれ」と迫った。


その怪しさに、気合一閃、腰にしていた愛刀の


青江の一剣にて、抜き打ち様に首をはねた。


女は後ろに髪の毛を引きずりながら、数歩歩いたところで消えた。


その日はそのまま帰り、翌朝あらためてその場に行ってみたところ


道端の灯篭が、ちょうど人の首ほどの高さから


バッサリと切り落とされていたのが見つかった。


中島は「さてはこの灯篭が化けし妖怪だったか」と


その灯篭を見て云ったという。


その後、その界隈に妖怪が現れることはなかった。


後に、その女の不気味な笑みである「にやり」とした


言葉が「ニッカリ」と訛る、或は武家言葉へ変換され


青江の一剣、ニッカリと寄りたる女の化け物を斬り捨てたりける


となり、ニッカリ青江と呼ばれるようになった。





備中青江鍛冶は刃味に優れ、「青江の一剣」と云う言葉が残るほど


鋭利で、鎌倉末期から南北朝期に活躍しました。


地鉄の所々に地鉄の模様が消えて、ナマズの背中のように


黒く澄んだような沈着部があり、それを 「澄み肌」 あるいは


「なまず肌」と呼び、青江派の見どころの一つになっています。




実はこのニッカリ青江、もう一つの逸話があります。


京極高和の時代の話です。


まずちょっと遡って丸亀城の築城に関して少々。


丸亀城築城にあたったのは名工の誉れ高い


羽板重三郎 と云う石工でした。


しかし、丸亀城の完成と共に、築城主の生駒正親の不評を買い


斬殺されてしまったのです。


それに怒った重三郎は祟りに祟り、生駒家は没落の一途をたどり


遂には絶えてしまいます。


しかし、重三郎の怒りは収まらず、丸亀城に怨霊として


住まうようになりました。


以来、丸亀城に入る大名は、ことごとく祟られ


不幸の連続が起き、丸亀城=不吉な城となりました。




そして、時は流れ、京極高和が入城します。


京極高和は先祖伝来の名刀『ニッカリ青江』を


所持してきていました。


ニッカリ青江はかつて近江八幡で化け灯籠を斬った


いわば 妖怪退治の名刀 でした。


重三郎の怨霊はこのニッカリ青江を恐れてか


京極家に祟ることはなく、京極家はこの丸亀の地で


明治維新まで7代栄えることになるのでした。



と、云う逸話がります。


因みに、ニッカリ青江 は


流浪の剣としても知られ、所有者を転々とします。


元の所有者である 佐々木家の家臣(これも仮説)


から 柴田勝家/勝重 親子 → 丹羽長秀/長重


→ 羽柴秀吉/秀頼 → 京極高次(京極家) へと


所有者を変えて渡り歩きました。


故に狂歌に


「京極に過ぎたるものは三つあり ニッカリ茶壺に多賀越中」


とあります。


ニッカリは ニッカリ青江


茶壺とは 野々村仁清 作の茶壺


多賀越中とは 重臣の 多賀越中某 と代々名乗る家老 です。



そして現代では、戦時中の事は割愛しますが


その丸亀城のあった丸亀市の所蔵となっています。