異世界こぼれ話 その十 「サン・ジェルマン伯爵」 | Siyohです

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音楽とスピリチュアルに生きる、冨山詩曜という人間のブログです

サン・ジェルマン伯爵の名前は昔から知っていて、不老不死の人とか、タイムトラベラーと呼ばれているのを見てきました。でも詳しく調べたことはなかったので、この機会に調べてみました。

英語版やフランス語版のwikiによると、サン・ジェルマンは、ラーコーツィ・フェレンツ2世(1676 - 1735)の息子として、1691年に生まれました。最後の友人とされるカール・フォン・ヘッセン=カッセル(1744 - 1836)が、1779年にサン・ジェルマンと会った際、彼が今88歳だと言ったことから計算するとそうなります。しかし生年には1707年、あるいは1712年という説もあり、日本語版のwikiでは、「スペイン王妃マリー=アンヌ・ド・ヌブールと貴族メルガル伯爵との私生児と言われている」と載っています。実は多くの伝記作家がそれぞれ違う記述をしていて、どれが本当なのかわからない状態なのです。没年に関しては1784年ということになっていますが、この後にも彼に会ったという人たちがいます。

 

サン・ジェルマンに関して書いている人はたくさんいて、例えば「知れば知るほど悪の世界史(桐生 操)」にはこんな逸話が載っています。ある時サン・ジェルマンはリチャード1世(1157 - 1199)とともに第3回十字軍に参加したと話していて、そばにいた従者に「君も覚えているよね」と言いました。しかし従者は、仕えてからまだ300年しか経っていないから、その時のことは知らないと答えたのです。

 

ところが「妖人奇人館(澁澤龍彦)」によると、サン・ジェルマンはローマのシーザーの時代の話をしていて、その際に周りの人から従者に対して「お前の主人の言っていることは本当かね」と質問があったことになっています。どこかで話が錯綜しているようです。なので、なるべく古いソースをたどりたくなり、探してみました。

 

サン・ジェルマン伯爵は当時の人から見るとあこがれの人で、その思い出を書いている人はたくさんいます。マリー・アントワネットに一時期仕えていたアデマール伯爵夫人(1735-1822)が書いていた回顧録が、1836年に「Souvenirs de Marie-Antoinette(マリー・アントワネットの思い出)」として出版されています。その中に上記のエピソードが、彼女が直接聞いた話としてありました。なお、私はフランス語は全然わかりません。なので以下は、グーグル先生に英語に翻訳してもらったものを訳しています。ちなみに、直接日本語に翻訳させると、支離滅裂なわけのわからない文章になってしまうのが悲しいところです。

ある晩、サン・ジェルマン伯爵がみんなの前で、彼が重要な役割を果たしていた、ある出来事を話していました。その際、詳細が不確かだったので、そばにいた従者に向いて、彼はこう言いました。

 

「私は間違っていないよね、ロジャー」

 

これに対して従者は

 

「お忘れですか。私は貴方様に仕えてから500年しか経っていないので、その冒険には参加していません。きっと前任者の時代でしょう」

 

と言ったのです。その時からロジャーは「500年(cinq cents ans)」と呼ばれるようになったとのことです。

 

この話がなぜ、日本語で伝わっているような話になるのかよくわかりませんが、同じ思い出を書いている人が他にもいるのでしょうか。「Souvenirs de Marie-Antoinette」には、ジョルジ伯爵夫人(comtesse de Georgy)がヴェルサイユ宮殿でサン・ジェルマン伯爵と出会ったときの、有名な会話も書かれていました。アデマール伯爵夫人は、この会話は歪められて伝わっているけれど、これが本当の会話だと書いています。

 

「あれは私がヴェネツィアで大使夫人をしていた頃ですから、50年前ですね。あなたは変わりない。逆に若返っているみたい」

「お会いできて光栄です」

「当時はバレッティ公爵(marquis Balletti)と名乗っていましたね」
「ええ。50年前と変わらず、ジョルジ伯爵夫人は物覚えがよろしいご様子で」

「最初にお会いしたときにいただいたエリクシールのおかげです。あなたって、本当にただならぬお方ね」
 

ここでエリクシールと言っているのは、エリクサーとも呼ばれる、錬金術における副産物の液体で、万能薬であり、永遠の命を得ることができるとされているものです。実はサン・ジェルマンは、錬金術に成功していたと言われています。彼はルイ十五世に非常に気に入られましたが、それは最初に会った際に、ダイアモンドをたくさん献上し、それは買ったのではなく、自分で作ったものだと言ったことに始まります。

もうひとつ、当時の資料から伯爵の様子を紹介しましょう。1868年に「Souvenirs de Charles-Henri baron de Gleichen」という本が出版されました。これはドイツのネンマースドルフで1735年に生まれた、Charles-Henri baron de Gleichen(シャルル=アンリ・グライヒェン男爵?)が書いたもので、18世紀後半に関するとても良い資料です。まずはこのグライヒェンが何者かを書きましょう。

サン・ジェルマンはルイ15世に寵愛されていましたが、ルイ十五世の重臣であるショワズール公爵から疎まれ、最後にはスパイ容疑で告発され、宮廷から厄介払いされています。このショワズール公爵の夫人が、実は公爵よりも深く愛していたのではないかと言われているのがグライヒェン男爵です。彼は1753年にパリに出てきて、Madame de Graffignyのサロンによく出入りしていたようです。その後すぐ彼はイタリアに行くのですが、そこではフランス大使、スタンヴィルの伯爵と呼ばれ、尊敬されていました。1758年の終わりには、ショワズールによってフランスの外務大臣となっています。
 
1759年にグライヒェンはパリでランベール夫人の晩餐に招かれ、そこでサン・ジェルマンに会いました。グライヒェンはイタリア在住なので、イタリアの話で伯爵と非常に盛り上がり、後に伯爵に招待されることになります。そこで彼は、たくさんの名画と宝石を見ました。彼は自分の審美眼に自信を持っていて、そこで見た名画はラファエロに匹敵し、宝石は間違いなく本物であり、また今まで見たこともないほど見事なものだったと書いています。
 
それから6ヶ月ほど、彼はサン・ジェルマンと親しくしていました。そして、サン・ジェルマンがとても昔のことを、まるでその時代にいたかのように話すのを聞いてきたのです。サン・ジェルマンはそれだけでなく、当時の詳細な絵を描いたりもします。あるときは、ヘンリー8世(1491 - 1547)の話をしながら「王は私に向かって、」と言いかけて、思わず口をつぐみ、そして「公爵に向かって、、、」と言い直していました。そんなサン・ジェルマンを見ていたグライヒェンは、サン・ジェルマンがある日彼に向かって、自分は500歳だと言った時、もはや不思議には思わなかったそうです。
 
グライヒェンはまた、当時のとても信用できる人たちから、サン・ジェルマンの逸話を聞いています。例えば、和声を理論建てたことで有名な作曲家ジャン=フィリップ・ラモーは1710年に、フランス大使の親戚と一緒にサン・ジェルマンと会ったと主張していました。
その時サン・ジェルマンは50代に見えたそうです。しかし1759年にグライヒェンが会った時は60代くらいに見え、それ以来1780年(実際は1779年)にシュレースヴィヒ公国に行くまで、サン・ジェルマンを知っている人たちはみな、彼の見かけがずっと変わらなかったと言っていると、グライヒェンは書いています。
 
グライヒェンは、伯爵とショワズール公爵との確執も書いています。サン・ジェルマン伯爵はショワズール公爵の家によく出入りしていました。ある時、グライヒェンとサン・ジェルマンが晩餐に招かれた席で、ショワズールが夫人に向かって「なぜ、酒を飲まない」と聞きました。それに夫人は、伯爵に合わせて健康のためにそうしていると答えました。実はサン・ジェルマンは酒を飲まず、食事もほとんど食べません。いつも口にするのはエリクシールだけなのです。それはさておき、ショワズールは夫人の言葉に突然怒り出しました。そして、伯爵は自由に変な習慣を実践してもいいけれど、お前はそんな愚かな習慣に染まるな、みたいなことを言ったのです。ちなみに実際の会話を読むと、言葉の端々から、彼がサン・ジェルマンを快く思っていなかったのがよくわかります。
 
ショワズールはこの後、ゴヴ (Gauve) と云う名の道化を雇ってサン・ジェルマンのふりをさせました。ゴヴはサン・ジェルマンの風体で各地のサロンに顔を出し、ありそうもないほら話を吹聴したのです。程無くしてゴヴの活動は露見しましたが、ショワズールは懲りずに、最終的に伯爵をスパイ容疑で告発します。グライヒェンはこの後伯爵がイギリスに行き、そこからペテルブルグ、ドレスデン、ヴェネツィア、ミラノを転々としながら、染料の秘密を売り物にしながら工場を始めようとしていたと述べています。
 
サン・ジェルマンは非常に語学が堪能で、ヨーロッパの主要言語に加えて、ギリシア語、ラテン語、サンスクリット語、アラビア語、中国語などにも通じていました。クラヴサンとヴァイオリンの名手でもあり、作曲も巧みです。また、錬金術に成功したと言うだけあって、とにかくお金持ちだったので、どの国に行っても目立った存在となっています。1760年にロンドン・クロニクル紙でサン・ジェルマンの特集が組まれましたが、そこでは、探偵を雇って資金源を二年間調査したが、どこからその金が来ているのかわからなかった、と書かれています。
 
サン・ジェルマンは一応、ドイツのカッセルで亡くなったようです。彼は1779年にシュレースヴィヒに行き、カール・フォン・ヘッセン=カッセル公子の庇護を受けることになりました。カールはもともとミステリアスなものに惹かれていて、いくつかの秘密結社に入っていたので、サン・ジェルマンに心酔し、彼が布を染め上げる新しい技法を開発したと言うと、エッカーンフェルデ(Eckernförde)に工場を提供しました。カールはルーゼンルント(Louisenlund)城の錬金術研究室に伯爵とよく一緒に行っていて、協力して宝石や原石を作り出していたそうです。
 
エッカーンフェルデにある聖ニコライ教会に、サン・ジェルマンは1784年2月27日に死去し、3月2日に埋葬された記録が残されています。またエッカーンフェルデの市長と市議会が、4月3日までに親族が現れなければ、伯爵の遺産は競売にかけるという公式声明を出しています。なお、工場はカールが国に寄贈し、後に病院となりました。
 
しかしこの後でもサン・ジェルマンに会ったという報告が絶えません。「三重の叡智」というサン・ジェルマン自身が書いたとされる本があります。その英語版を1933年に出版したManly P. Hallは、本文の前に自身の調べたサン・ジェルマン像を書いています。そこに「シャロン伯爵(Comte de Chalons)が1788年にヴェネツィア大使館から帰還する際、旅立ちの前夜にサンマルコ広場でサン・ジェルマン伯爵と会話したと言っているのを加えなければならない」と書いています。シャロン伯爵が何者なのか今ひとつわかりませんが、調べてみると1790年に出版された「The Edinburgh Magazine, or Literary Miscellany(エディンバラマガジン、もしくは寄稿集)」において、寄付をくれたフランス大使たちの名前の中に、リスボンのシャロン伯爵が10万リーブルを出した記録があります。おそらくこの人でしょう。
「三重の叡智」ではさらに、アデマール伯爵夫人も、亡くなったとされる日の後に伯爵と会って話をしていること、ブリタニカ百科事典には、伯爵が亡くなった数年後のフリーメイソンの会議に、彼が出席した記載がある旨を紹介しています。サン・ジェルマンは東洋の秘義に優れ、フリーメーソンの会員でもありました。
 
実はこれ以降に、またとんでもないことがあります。1930年にサン・ジェルマン伯爵と出会って、宗教を始めた人がいるのです。
 
ガイ・バラードは神智学を学び、その教えに精通していました。彼はカリフォルニアのシャスタ山にグレートホワイトブラザーフッド(白色大同胞団)が出没するという噂を聞いて、ある日この山に登りました。そこで彼は自分を「サン・ジェルマン伯爵」と称する男に出会い、数々の啓示を受けたのです。その、自称サン・ジェルマン伯爵は、もはや肉の体を持つ必要がないアセンデッドマスターの一人だったそうです。以降バラードは、定期的にアセンデッドマスターたちとコミュニケーションをするようになり、その教えを広めるためにサンジェルマン財団を設立しました。バラードはすでに亡くなりましたが、その意志を継ぐ活動は「IAM運動」と呼ばれています。なお、バラードは英語圏の人なので、サン・ジェルマンを英語風に発音します。そのため、IAM運動と絡むサン・ジェルマンは、セント・ジャーメイン、聖ジャーメインと表記されるのが普通です。
 
サン・ジェルマン伯爵は調べれば調べるほど奥が深い人です。個人的にはスウェーデンボルグと親交があったかどうか知りたいところです。生きていた時代はほとんど同じで、二人ともフリーメーソンの会員なので、会っていた可能性は高いのですが。でも今回の調査はここまでとしましょう。次回からは、心霊現象とそれに挑んだ科学者たちを紹介していきます。