サン・ジェルマン伯爵は当時の人から見るとあこがれの人で、その思い出を書いている人はたくさんいます。マリー・アントワネットに一時期仕えていたアデマール伯爵夫人(1735-1822)が書いていた回顧録が、1836年に「Souvenirs de Marie-Antoinette(マリー・アントワネットの思い出)」として出版されています。その中に上記のエピソードが、彼女が直接聞いた話としてありました。なお、私はフランス語は全然わかりません。なので以下は、グーグル先生に英語に翻訳してもらったものを訳しています。ちなみに、直接日本語に翻訳させると、支離滅裂なわけのわからない文章になってしまうのが悲しいところです。
この話がなぜ、日本語で伝わっているような話になるのかよくわかりませんが、同じ思い出を書いている人が他にもいるのでしょうか。「Souvenirs de Marie-Antoinette」には、ジョルジ伯爵夫人(comtesse de Georgy)がヴェルサイユ宮殿でサン・ジェルマン伯爵と出会ったときの、有名な会話も書かれていました。アデマール伯爵夫人は、この会話は歪められて伝わっているけれど、これが本当の会話だと書いています。
もうひとつ、当時の資料から伯爵の様子を紹介しましょう。1868年に「Souvenirs de Charles-Henri baron de Gleichen」という本が出版されました。これはドイツのネンマースドルフで1735年に生まれた、Charles-Henri baron de Gleichen(シャルル=アンリ・グライヒェン男爵?)が書いたもので、18世紀後半に関するとても良い資料です。まずはこのグライヒェンが何者かを書きましょう。
サン・ジェルマンはルイ15世に寵愛されていましたが、ルイ十五世の重臣であるショワズール公爵から疎まれ、最後にはスパイ容疑で告発され、宮廷から厄介払いされています。このショワズール公爵の夫人が、実は公爵よりも深く愛していたのではないかと言われているのがグライヒェン男爵です。彼は1753年にパリに出てきて、Madame de Graffignyのサロンによく出入りしていたようです。その後すぐ彼はイタリアに行くのですが、そこではフランス大使、スタンヴィルの伯爵と呼ばれ、尊敬されていました。1758年の終わりには、ショワズールによってフランスの外務大臣となっています。
しかしこの後でもサン・ジェルマンに会ったという報告が絶えません。「三重の叡智」というサン・ジェルマン自身が書いたとされる本があります。その英語版を1933年に出版したManly P. Hallは、本文の前に自身の調べたサン・ジェルマン像を書いています。そこに「シャロン伯爵(Comte de Chalons)が1788年にヴェネツィア大使館から帰還する際、旅立ちの前夜にサンマルコ広場でサン・ジェルマン伯爵と会話したと言っているのを加えなければならない」と書いています。シャロン伯爵が何者なのか今ひとつわかりませんが、調べてみると1790年に出版された「The Edinburgh Magazine, or Literary Miscellany(エディンバラマガジン、もしくは寄稿集)」において、寄付をくれたフランス大使たちの名前の中に、リスボンのシャロン伯爵が10万リーブルを出した記録があります。おそらくこの人でしょう。