朝焼けのグラストンベリーのトールで見かけたカップルの写真が

たぶん、ピッタリかな、今日のブログ。

 

ちょっと、面白そうなので、読んでみました。

何が気になったかというと「復縁」という言葉ですね。

 

りえさん、リブログさせてもらいますね~

 

本当は、今、そんなことを書いている暇はないのですが

メルマガで告知しなくちゃと思っていたので…

 

(笑)

 

でも

 

復縁について

書いてみたいので、書きます。

 

私の場合、完全に5次元的な復縁です。

 

エントロピーの法則が、人間関係にも及ぶことがあるのだとしたら

その法則が働いたのか

「はい、カット!ここまで!撤収~~」

と、撮影現場でよく使われている言葉のように

人生のシーンが、あるところで急に終わり

 

それって

ある意味、状況の死という言い方もできるのではないかと思うのですが

まったくもって、そういう状況の破壊があり

 

と言っても

私が破壊したわけではなく

私は、状況の死を予感したので、私自身が生きられるタイムラインをクリエイトするしかないと

心底感じていたのね。

 

その時に、脳裏に見えてきたのが

マルグリット デュラスの「ラマン」の最後のシーン

昔の愛人がパリにやってきて、君のことをまだ愛していると電話をかけてくる。

彼は、奥さんと一緒にパリに来ているが、抜け出して電話しているのだろうという光景が見えてくる。

 

そのシーンが、連日見えていて

なんだか、わからないけどデュラスの本を買うことにした。

 

これについては

前にも書いたと思うけど

これなしに説明できないから、書く。

 

 

若いときの彼女たちの愛の行為のシーンが

鮮烈な言葉で書き表されていて、

「夫のことは愛しているけど、若いときの、あの、セーターを脱ぐにのもどかしいような情熱が懐かしい。」

と、イギリスのデヴオーラで出会ったセラピストの女性が話していた言葉が脳裏によみがえる感覚。

 

パメラだったな…

 

 

その本を読んでいるときの私は、愛とか恋にではなく

表現力にまいちゃったな~という感じを持っていて

いかに、真実の感覚をそのまま、あるいはそれ以上描けるのかということについて

感心していただけで、状況の死については

あまり真剣にとらえていなかった。

 

なぜなら、そのころ借りたタワーマンションの33階の部屋の外にカモメが巣を作っていて

カラスに狙われる雛を守るために、連日、悲惨な叫び声のような鳴き声を発していて

時折、カラスの猛撃が加えられて、カモメは必至な飛行をしながら、雛を守るという見ていられない状況を呈していて

その結果、

見られたものではないものを、凝視してしまうという状態に陥っていたし

世間は、隔離状態で、他に行くところもなかったので

時間にそって、流れていくしかないという 

まあ、それでもリラックスした時を生きていたわけで…

 

でも

状況の死は、容赦なくやってきて

それは、よく夫婦関係が終わる原因である経済的なことでもないし

浮気だったり、性格の不一致というようなものでもなく

 

これ以上、行くべき時空間がこの先にない

見えない、空気の壁があって、跳ね返されるような感じといえばいいかな。

 

ちょっと言い表せていないけど、そんなもの。

 

そうすると

状況は、外からやってきて、その状況は以前から何回か経験していたことがあり

慣れている状況でもあったけど

もう、いらないなと思った。

 

人生の中で、自分がクリエイトしたことでもないものが

何度も現れてきたら、そのタイムラインは、私がいるべきところではないという結論。

 

その時、夫が言った言葉が

「音楽が戻ってきた。長年、回せなかった卓がまた回せる。感覚が戻ってきた。」

というもの。

 

この言葉を聞いて

私は完全に、状況の死と、状況の再生というものを認知したっていえばいいかな。

その言葉を聞いて、心底、安堵した。

心から、よかったねと思って、帰る道を見つけた彼をお祝いしたい心境だった。

 

しかし

そうなってくると、もう、完璧に幕が下りてしまった感があり

時空に亀裂が入っていった。

メリメリと音を立てていく感じで。

 

ある日曜日の昼下がりに、キャンプのためのテントを買いに出かけたときのこと。

その日、シャネルのサングラスをかけていたことは覚えているのだけど

そのサングラス以外のすべてが受け入れられなくなって

「そこにいては、いけない」

という感覚に見舞われた。

 

そのそこというのは、場所だけでなく、時間のことでもあるので、時空間といえばいいのだけど

その時空間は、私が出現するはずのない時空間であるというような強い感覚で

 

 

以前、両親との別れの時にも同じような「そこにいてはいけない」という不思議な感覚を得たのだけど

それと似ていて、そこにいたら、私というアイデンティティは完全に消え去るという

状況の死ではなく、アイデンティティの死とでもいえばいいのかな

そんな感じに見舞われた。

 

これは

最初の離婚のときもそうだった。

 

急に終わる。

幕が下りる。

 

後戻りする道はどこにもない。

 

そして、

33階の部屋から9階の事務所に移動した。

ソファベッドを買って、自分の場所を確保して

状況を理解しようとしていた。

 

でも、状況の理解は、左脳的な努力でしかなく

そこには、時空の行き止まりのようなことについての知識も情報もなく

ただ、そういった状況がもたらされていることだけしかわからなかったけれど

 

わかっていたのは

こんなに、早く、シーンが変わるなんて、ディレクター、言ってなかったよね

というような、加速化した現実を咀嚼するために、実際の内臓さえ使わなければ埒が明かないほどの感覚。

 

混乱した7日間が過ぎたある日の夕方

24歳の時に別れた彼がFacebookで私を見つけて、JUNKOと呼び掛けてきた。

 

まさかと思って、見ると、8月30日に写真に「いいね!」をつけに来ていたことも分かった。

あまりの驚きに、叫び声を上げた私を事務所にいた人たちが見ていて

なぜ、叫んでいるかを伝えたところ、彼女たちも驚いて目を丸くしていた。

 

そして

 

何が起きたかといえば

デュラスの「ラマン」の最後のシーンと同じことだった。

 

まだ、君を愛しているという言葉が

もう、日本語でもなく英語でもなく、フランス語でもなく、スペイン語だったことが

彼との関係が戻った証拠だった。

 

これは復縁というのかな?

 

彼が見ていた世界に、私が連れ戻された感覚は、まさに量子物理学的。

観測者がいるかどうかがここでは大切なポイントになる。

 

私は素粒子で、それを観測しているのが彼。

 

観測者の思った通りに、現実が生じる。

そこでは、私は素粒子でしかなくて、二重スリッドを通過して壁に縞模様を作るような単純な現実を作る。

 

愛でるという言葉は、まなざしを向けるという意味でもあり、別の意味を探れば観測者となるという

視点の在り方だ。

 

そして、彼は私が40年前に捨てた音楽を再び行うようにまなざしを向けた。

かつて、一緒に演奏したことは1回しかなかったのに、それを手がかりに、私という存在を作りなおした…彼の感覚で。

 

私は、自我の強い、一つの個性ではあるけれど

こんなに簡単につくりかえられてしまうわけだ。

 

私は、人一倍、意志が強いし、一貫性をもって行動していると思う。

たぶん、他の人たちも私のことをそう思っていると思うけれど、

「愛」というものが持つ、

いや、観測者の「愛」というものは、状況の死を超えたクリエーションを起こす力を持っていて

その反面、破壊力も発揮する。

 

このすべての流れの間

 

彼は、愛犬を亡くし、家を売られ、娘を亡くし、弟を亡くし、もう一人の弟も亡くし、最後に母親を亡くした。

他界した友人の数は両手の指の数を超える。

 

その間、国のために貢献した人だけがもらえる年金さえも、銀行から引き出さなかったために停止された。

つまり、彼さえも死んだと思われたわけだ。

 

それで

 

 

これを書いている間

チチチチチチチチと、変な音がしているので

何か電気の故障かなと思っていたら

ソーラー時計の長針がくるくるとまわっているではありませんか!!!

 

思わず、スマホを手に取ると2時30分とデジタル時計が表示されていて

カメラを向けて動画をとっている間に

あ・・・そうか、2時半のところで時計は、止まるのか…

 

と、気づいた次第。

 

 

 

確かに、

復縁は、自分磨きとは関係ない。

 

彼に合わせるわけでもない。

 

眼差しは、「愛でる」行為となり、それは相手を素粒子化してしまう。

 

状況がクリエイトされてしまう。

 

復縁であれ何であれ、一番必要なのは、「愛でる」眼差しだよね。

結論としては

 

愛していなければ

復縁はありえないということ。

 

だって

まず、同じ波動帯にいなくちゃありえないもん。

 

最近では、私たちのデュオにアルマ・メリッサというタイトルがついている。

 

アルマ・メリッサとは「魂のツイン」という意味。

復縁というより、覆水盆に返るというニュートン力学的にはあり得ないこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

きわめて5次元。