注意:
このブログは妻が辛い闘病生活を終え、天国へと旅立ったあと、ブログ主が妻との人生を振り返る目的で書いています。
長期間にわたることから記憶違い、記載間違いなどが起こる可能性は極めて高いです。ただ、わたしたちの経験してきた歴史はまごうことなき本物です。
それをご承知のうえでお読みください。
また、わたしの妻がどういう人間であったか。皆様の心の中に少しでも印象づけていただけたら幸いです。
前回の続き
サンリオ訪問から年末に向けて。
時は1990年。バブル景気は依然として続いており、年末近くなると忘年会が数多開催されておりました。
タクシーを札束で止めるなどといった蛮行?が繰り返されていたのもこの頃のことです。
因みに、彼女は24歳、わたしは25歳。共に未来に多くのものを持つ年齢でした。
若い人間が集うと飲み会が行われるのは今も昔も同じ。
ホントによく飲みに行きました。
やはり同じ部署の仲間で飲みに行くことが多かったですね。
飲み会の席ではなんとか彼女の横、もしくは前に座ろうと努力して、そんなに失敗しなかったんじゃないかなと思います。
だって、当時の飲み会の写真を見ると大概彼女の隣、正面はわたしが座っているのですもの。(よしっ、いいぞ)
飲み会では元気に話をし、笑い声をあげて「わたしが居なかったら、つまんないよ⁉」といって笑いを取る彼女を眩しい目で見ていました。
30年以上前なのに彼女の表情もよく覚えています。
また、彼氏の話になると、「彼が女と遊びに行ったら妬くけど、わたしは男と遊びに行くからw」とか言って周りの人間を笑わせていました。
今にしてみれば、男友達としてだったら、わたしと遊びに行ってあげるよ、という意味だったのかも知れません。
因みに、彼女はお酒にめっぽう強くて、酔っぱらったことは一度たりともなく、健全な?飲み会に終始していました。(彼女の持論は女はお酒に強くなければならない)
わたしは飲み会帰りに送っていきたくて、危ないから送るよ、と言っては彼女の最寄り駅まで送っていました。
ただ、残念なことに、彼女の家の最寄り駅は高円寺で、新宿からすぐに着いちゃうんです。
電車の中は人がたくさんだし、会話も大してできない。
彼女からしたら、しつこい先輩が付いてくるのが煩わしかったと思いますね。
よく我慢してたと思います。
今だったら確実に人事に訴えられてハラスメント認定です。
こうして彼女が入社してきた年は過ぎていったのでした。
明けて1991年。
春から夏にかけて時は過ぎていきましたが、二年目のわたしは業務量も増えてきて、彼女との退社タイミングが全く合いません。
彼女は定時に「おつかれさまでしたー」と言って楽しそうに帰って行きます。
当時はバブル景気ですから会社の業績も右肩あがりで、比例して業務量も増加。
仕事のできる(若気の至り。。)わたしは残業につぐ残業で忙しかったのでした。
接点が減って焦っていたわたしはあることを考え出します。
はい、電話です。
携帯電話の普及している現代では考えられないことですが、仕事で確認があると適当な理由をでっちあげて彼女の家電に電話したのでした。
それくらい彼女と話がしたかったのです。
ここまでくると最早ストーカーですが恋は盲目。ついには夜中の1時に電話するという馬鹿をやり、彼女のお母さんが彼女に「夜中に電話するのは止めてもらいなさい」と言うまでの事態に発展したのでした。
因みに、電話したのは都合3回。夜中の電話が最後でした。
(おいおい、わたしってヤバイ人だったんですね。。⇐ 今頃?)
さて、電話という最後の手段を封じられたわたしは正攻法に転じました。
彼女をドライブデートに誘うようになったのです。休みの日の予定を聞いては彼女を誘って出かける。
この頃の彼女は、わたしを単なる男友達の一人としてではなく一人の男性として好意をもって見てくれていたと思います。
そうしたある日、1991年の秋口だったと思います。
彼女から話があると言われ、環七にあったあるファミレスに呼び出されたのです。
彼女を車で迎えに行って、ファミレスに着くと、しばらくして彼女が切り出しました。
実は彼氏が彼女とわたしとの関係を不安がっていて婚約することになったと。
指には彼からもらったダイヤの指輪がキラキラと輝いていました。
続きます。