この物語はフィクションで
実在する人物・団体等とは一切関係ありません。
ホスピタリティ・おもてなしの心【54】
唐沢志穂は、チエックインして暫くするとフロントにキーを預け外出した。
二時間程して戻って来たとき、フロントカウンターに裕樹は支配人の西垣内
さゆりと二人でいた。
裕樹は、玄関から入ってくる志穂の姿を見かけると素早くルームキーを手に
した。
しかし、志穂がルームナンバーを告げてから
「唐沢様ですね、お帰りなさい」と言って鍵を差し出した。
西垣内さゆりは、それを横目に見ながら志穂に会釈をして、事務所の方へ
姿を消した。
志穂は、フロントが裕樹だけになったのを見て小声で話しかけた。
『岩谷くん、今日は宿直なの?』
「今日は、22時で終わりです」
裕樹の返事を訊くと
『ねえ、それじゃ、お仕事終わったら部屋に来てくれない?』
志穂が身を乗り出すようにして問いかけた。
「そんなの駄目ですよ。唐沢さんなら、よくご存知でしょう」
裕樹は、事務所に通じるドアーの方を気にしながら言った。
『そりゃそうよね。じゃあ、どこかへ飲みに出かけない?つもる話もあるし』
「あっ、ごめん。今日は、ちょっと都合悪くて」
志穂は、つまらなさそうな表情をして見せた後
『あっ、そうか、彼女とデートだ』と、肩をすくめて言った。
「違いますよ。俺、今そんな人いないっすよ」
裕樹は相手が志穂だけに、ついついホテルマンが客に対する言葉づかい
ではなくなってしまった。
しかし志穂の方は、裕樹の答えに気を良くしたように
『じゃあ明日の勤務は?』と、にこやかに問いかける。
「明日は、オフです」
『明日、わたしがチエックアウトした後会うのは無理かなあ』
志穂は、どんな答えが返ってくるのか不安そうに訊いた。
「それなら、いいですよ」
『じゃあ、御願い』
志穂は、満面の笑みを浮かべ、自分の都合の良い時間と場所を裕樹に
告げエレベーターに向かった。
裕樹はホテルマンの立場に戻り、頭を下げ志穂を見送った。
裕樹に、今日仕事を終えた後何の予定もなかった。
しかし、夜遅く志穂と夜の街に出ると、どうなるか自信がなかったので
断った。
不意に
『岩谷くんは凄いわね。お客様の顔と名前を記憶しているなんて。それで
いて、お客様の口から出る言葉と照合した上でキーを差し出す。見事なもの
ね』と声をかけられ、西垣内支配人がカウンターに戻って来たのに気づいた。
「そんな事ないですよ」
『ううん、わたしにはまだまだ無理ね。全てのその日のお客様について
把握するのは』
俺にも無理だよ。裕美じゃあるまいし。相手が志穂さんだから・・・・・