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たまたま今朝読んでたメルマガとなんかリンクしたように感じたので、とりあえず。
 
長文コピペしてますm(__)m
 
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【2024年6月8日号。<強権と脱出と客車カフェと / 映画・音楽・本について今、僕が語ること。~第一九九回「鬱日記・その5」:東良美季>

3時起床。秋田の自宅。
おはようございます。n_wakaこと若松尚利です。執筆者一覧 – 誠論酔藝 (seironsuigei.jp)
みなさんはどのような土曜日をお過ごしでしょうか。

今は羽田空港のラウンジ。
今日はこのあと大阪です。党の全国政調会。
秋田から直行で飛ぶより安いので、羽田乗り継ぎで。
あとで交通費精算してもらえるので、直行便でもいいんですが、原資は税金なので節約節約。

昨日から議会が始まりました。
昨日一日で、本会議、予算決算委員会、各分科会、予算決算委員会、本会議と回して、定額減税で減税しきれないと見込まれる者への給付と新たに住民税非課税等となる世帯への給付と地すべり復旧工事に伴う移転補償と整地を通しちゃうという。
で、ここからしばらく休会。再来週の一般質問から再開です。
まあ、傍目にも議会の日程は謎ですよね。まあこの間も実はそれぞれグルグル動いていまして、議員は一般質問を書き上げて議会事務局と調整して質問通告書を仕上げ、通告をもらった各部局は答弁を検討しているわけです。

一応、議会開会中なので、秋田市から離れないほうがいいことになってますが、まあ、党務なので仕方がありません。
あ、万博会場の様子見てこなきゃ(笑)

さて、今週もニュースを振り返っていきましょう。
大ネタ1本、小ネタ3本くらいに絞るのを目標にしていますが、大ネタ3本小ネタ4本です。4本です。

万博はネガキャン系記事と普通に面白そうという記事が入り交じるフェーズに入って来た気がしますが…

<万博ポスター、交野市が撤去…市長「府の強権的な手法に対する抗議として指示」>
https://www.yomiuri.co.jp/expo2025/20240604-OYT1T50148/

交野市長もよくも悪くも目立っていますね。
ただ市長が「参加」と「検討中」の二択を迫っている強権的だって言ってますけど「参加しないので回答しない」も入れた三択なんですよね。
それで強権的にポスターを撤去しちゃあ。
女子中学生とのLINEグループで「キモい」と言われてブチ切れた市長だと思って見ていると、然もありなん、な感じ。

今週はアレがあった日がありましたね。
って、アレのこと書くと、中国本土で購読している読者さんには届かないかな(汗

<天安門事件から35年の証言「ここは戦場だった」混乱の中国・北京から邦人を脱出させた元ANA職員が見たもの>
 https://www.fnn.jp/articles/-/708521

現金を持っていない人にも、日本人以外もワープロで急遽作ったチケットで乗せてあげたという。ワープロってのが時代ですが…
現代版の杉原千畝みたいな話ですね。

そして個人的に注目していた話題がココに来て全国ニュースに。

<国鉄客車を改装のカフェに賛否の声 鉄道ファンら「価値失われた」>
https://mainichi.jp/articles/20240603/k00/00m/040/221000c

そういう文句を言うなら、保存したい人たちがお金と時間と手をかけてやるべき!!という意見も出て来ていますが、それやってたのに…というお話。
改装前と改装後の写真を見ると、寂しくなりますし、こういう風にするなら別にコンテナでも持ってきてやればいいんですよ。

あとはサラッと。

<会場は日本なのに…中国国内“ライブ禁止”のロック歌手の歌を聞くためだけに多数の中国人来日し涙 日本人が知らない“中国”の一面>
https://www.fnn.jp/articles/-/704919

円安ニッポン。オーバーツーリズム気味ですが、自由の無い国から自由にコンサートを開くために来日し、そして聞きに来るという需要があるとは!!

<市長参加の除幕式で突然の悲劇 記者は見た、司会者10分間の奮闘>
https://digital.asahi.com/articles/ASS503QBWS50TTHB006M.html

いや、でもプロの司会者さんはスゴいなあ。面白いけど、自分はイベントやる側の気持ちに感情移入しちゃうので胃が痛む。

<仏紙が問う「なぜ日本の建築家は、自国において亡命状態にあるのか」>
https://courrier.jp/news/archives/365976/
<東京が野心的なプロジェクトを実現しようとして見せた最後の努力は、2013年、新しいオリンピックスタジアムとしてザハ・ハディッドの案を選んだことでした。しかし、建設費に関する馬鹿げた論争の犠牲になり、ザハは撤退しなければならなかった>

ずっと同じようなことを言っていますが…
やはり日本という国自体が高齢化し、挑戦をしなくなってることなんですよね。良くない!!!

<榛葉さんが、蓮舫さまの政策について解説。>
https://x.com/NecoZi3/status/1799054240746471746

絶対面白いから、見てね。と書いてあってハードル上がってるけど、ホントに面白い。

お待たせしました。
東良さんの連載です。
なんとなく独りで亡くなっていた従兄弟のことを思い出しながら読んじゃう。

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映画・音楽・本について今、僕が語ること。第一九九回「鬱日記・その5」

東良美季(作家)

「マギー・メイ」ロッド・スチュワート
Rod Stewart - Maggie May (1971)
https://www.youtube.com/watch?v=KlFPDi1B-jM

 孤独死したAは五人の従兄弟の中でも特に勉強ができた。しかし現役で同志社大学に合格したものの、卒業後は就職せず、京都に喫茶店を開いた。ティーンエイジャーの頃からロック・ミュージックが好きだった彼は、スクエアな生き方はしたくなかったのだろう。

 そういう時代だった。一九六〇年代後半にベトナム反戦運動に参加し、その後は農場でコミューン生活を送り日本を含め世界中を放浪した作家、レイモンド・マンゴーの『就職しないで生きるには』(中山容・訳、晶文社 https://x.gd/igYU1 )という本が話題になっていた。

 大学受験のとき、彼は地元の広島から上京し川崎にある僕の実家に泊まったが、確か早稲田や慶応にも合格したはずだ。それでも同志社に進んだのは、京都という土地に思い入れがあったからだと思う。

 アレン・ギンスバーグやジャック・ケルアックと並ぶ「ビート・ジェネレーション」の詩人、ゲーリー・スナイダーは六〇年代の後半京都に移住して「禅」を学び、「部族」というヒッピー・コミューンを作っていた詩人、ナナオサカキや山尾三省と交流した。

「拾得(じっとく)」や「磔磔(たくたく)」といった古い藏を改造したライブハウスもあり、ウエスト・ロード・ブルース・バンドをはじめとするグループが演奏し、ブルース・ブームも起きた。Aもそんな文化圏の中で生きたかったのだと思う。

 今回、彼の部屋に残されたアルバムを見て初めて知ったのだが、彼の開いた喫茶店の名前は「マギー・メイ」と言い、看板には「音楽と珈琲の店」とあった。「マギー・メイ」はロッド・スチュワート、一九七一年のヒット曲のタイトルで、アルバム『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』の収録されている。

 しかし、その店はあまり上手くいかなかったようだ。二年か三年ほどで閉店したと聞いた。彼が音楽と共に、もうひとつ好きだったのが馬だった。そこで滋賀県の信楽にある牧場で修業を積み、厩務員になった。信楽には「信楽牧場」や「ノーザンファームしがらき」など競走馬を育てる有名な牧場があり、調べてみると現在も、厩務員課程の受験希望者を募集しているとあった。

 京都の喫茶店は学生時代から付き合っていた恋人と結婚し、二人で経営していた。信楽時代はどうだったか不明だが、その後夫婦で上京し、大井競馬場(東京シティ競馬)の厩舎のひとつに就職して、会社の宿舎で生活していたらしい。

 しかし、しばらくして奥さんとは離婚したと聞いた。その頃から、僕ら従兄弟をはじめとする親戚とは疎遠になった。理由は特にない。強いて言えば彼の母親(僕の伯母)は彼が喫茶店を始めた頃に若くして亡くなり、父親(僕の伯父)は彼ら夫婦が離婚した頃に亡くなったからだと思う。

 五月六日のゴールデンウィーク最終日、最寄り駅の国分寺から従兄弟のHと待ち合わせをした大井町駅まで、中央線に揺られそんなことを考えていた。電車に乗っているだけで約一時間半、本を読む気にもなれず、他に考えることも思いつかなかったからだ。

 Hと合流し、タクシーで大井警察署まで五分ほど。警察署は昭和四〇年代くらいに建築されたであろう鉄筋コンクリートの古びた建物で、昨夜今朝と電話をくれたF刑事は玄関の前で僕らを待っていた。僕は「刑事」という職業の人と初めて会ったが、テレビドラマ『相棒』で水谷豊が演じる杉下右京のように、イギリス高級ブランドのスーツを着ているわけではなかった。

 その出で立ちは刑事というより「解体屋」とでも言った方が似合いそうだった。黒い作業パンツを大きなバックルの付いた布製のベルトで締め、上は無地の青い長袖のスウェットシャツ。身長は一七〇センチ代後半だろう。肩幅の広い堂々とした体格で、柔道などやっているのならさぞ強者であろうと思われた。年齢は推し量るに四〇代前半といったところ。

 いかにも硬そうな髪は元々角刈りだったのだろうが、伸びて立ち、寝癖が付いていた。もちろん解体屋さんが悪いとか杉下右京のようにお洒落であるべきだと言いたいわけではない。おそらく昨夜から一晩中勤務で寝ていないのか、あるいはわずかに仮眠を取っただけなのだろう。

 しかしF刑事には、そんなことは彼にとって当たり前の日常なのだという強靱さがあった。しかもそんな中でも亡くなったAに対して、さらに突然身内の者を失い連絡を受けた我々に対する、深い哀悼の意があった。それは言葉のひとつひとつからひしひしと感じられた。

 僕らは建物内に通され、四畳半ほどの小部屋で話を聞いた。そこはF刑事の風貌とは裏腹に、まさにテレビドラマに出てきそうな冷たいコンクリートの壁に囲まれた取り調べ室の如き空間だった。その息苦しさを与えないようにという配慮からだろう、F刑事は出入り口のドアを大きく開け放ったまま説明をはじめた。手にしていたの高校生が使う、表紙に「Campus」と書かれたコクヨのノートだった。

 Aは今年の四月に七一歳になったばかり。六五歳まで大井競馬場にあるとある厩舎にて厩務員として働き、定年を迎えてからは年金をもらいながら、大森駅前の駐輪場でアルバイトをしていた。僕の住む最寄りの国分寺駅にも地下に大きな駐輪場があり、働いているのは皆シニアの人たちだ。

 ゴールデンウィーク前半、四月三〇日が出勤で、翌五月一日は休みだったらしい。そして二日は出勤日だったにも関わらず、何の連絡もなく駐輪場に現れなかった。そんなことはこれまで一度もなかったので、職場の人が心配して警察に届け出た。

 Aが暮らしていたのは大森駅から徒歩五分ほどの六階建てマンションで、最上階に大家さんが住んでいる。交番のお巡りさんが大家さんに事情を話し鍵を借りドアを開けてみると、Aは椅子に座りベッドに顔を突っ伏すような体勢で倒れていた。それが五月四日の午後のこと。彼は既に冷たくなっていた。床には吐血した跡が残されていたという(続く)。
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