若い方々は、おそらく知らないのでしょう。

 

40年以上も前になりますか、

 

「一人の生命は、全地球よりも重い」

 

と言ったソーリがいました。

 

 

 

          ・

 

 

(以下、WIKIより)

 

一人の生命は全地球よりも重い

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

一人の生命は全地球よりも重い(ひとりのせいめいはぜんちきゅうよりもおもい)は、人間生命価値を表す言葉。

概要

[編集]

自助論』からの言葉である。

中村正直サミュエル・スマイルズの『自助論』の翻訳をする際にこのような記述を用いた[1]

『自助論』とは、この一人の生命は全地球よりも重いからも有名な書籍である[2]

死刑合憲判決1948年)の最高裁判所の判決文にもこの言葉が用いられる[3]

ここでは一人の生命は全地球よりも重いを引用していたのだが、死刑は「残虐な刑罰」を禁じた日本国憲法第36条に抵触せず、合憲であると判断されていた。

だが、未来永劫死刑を永久に是認しているとは考えられないという補充意見もあった[4]

 

1977年ダッカ日航機ハイジャック事件では、当時の総理大臣であった福田赳夫は一人の生命は全地球よりも重いを用いて、人質の命と引き換えに日本国内の獄中の過激派の釈放と、当時のレートで約16億円の身代金を支払うという犯人の要求を飲む決断をした[5]

 

女性は土俵から降りてくださいの事例では人命としきたりのどちらが大事かが論点となる。

この議論は「一人の生命は全地球よりも重い」の延長線上にある。

人命第一主義はいずれの言説によっても致命的な批判ができず、

そこから外れれば容赦なく罵詈を浴びせられ社会的に抹殺される危険性がある。[6]

 

コロナウイルス感染症の際に橘川俊忠は、一人の生命は全地球よりも重いに象徴される生命観や倫理感が社会に浸透しているため、岸田内閣の経済優先や規制解除をするという決断を妨げたと述べる[6]

 

 

       ・

 

 

地球がなくなれば地球人は存在できなくなります。

 

たった一人の生命と全地球人の生命との比較であれば、

 

その答えは明白でしょう。

 

どう考えても地球の方が重いはずです。

 

 

ハイジャック犯の要求に対応する際の言葉として使ったのが、

 

「一人の生命は全地球よりも重い」なのです。

 

 

 

「テロには決して屈しない!」

 

を標準としている国際社会は、

 

「テロに屈した日本国政府」として批判しました。

 

 

が、

 

日本国内ではそんな批判はありませんでした。

 

 

まあ、

 

そのくらいに人の命を大切に考えるソーリが、一人くらいいても悪くはないだろう、

 

として、

 

その言葉は日本国民に受け入れられたように思います。

 

 

厳密に言えば、受け入れたのではなくて、批判する言葉が見つからなかった、のかもしれません。

 

 

もし、その頃SNSがあったならば、様々な意見が飛び交っていたのだろうなあ、

 

等と思うと、

 

まあ、のんびりしていた時代であったことは疑う余地がありません。

 

 

当時のそんなソーリの言葉を、

 

そのまま100%受け入れることはないにしても、

 

 

いま、

 

安芸高田市の市会議員の死を知り、

 

 

「地球よりも重かった日本人一人の生命だったのに、最近は、随分と軽くなったものだな!」

 

 

とは、

 

思いますね。

 

 

 

陰でほくそ笑んでいる存在があるのかもしれません。

 

あるいは、

 

21世紀の世界標準に近づいたのかもしれません。

 

 

 

だとしても、

 

世界標準なのだから仕方がない、等としてそれを許すわけには行きません。

 

 

 

        ・

 

 

大川総裁のお言葉を思い出します。

 

 

大川隆法フィリピン・香港巡錫の軌跡 (「不惜身命」特別版・ビジュアル海外巡錫シリーズ)

 

 

 

「香港の中国化を許してはいけない!」

 

「中国を香港化しないといけない!」

 

 

 

いま、里帰り中の天空から地上をご覧になって、

 

「日本が、狂っている世界標準に組み込まれてはいけない!」

 

「狂っている世界標準を修正し、日本化しないといけない!」

 

 

そんな風に思っておられるような気がしないでもありませんね