上塘街・阊门 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2023年9月11日は、杭州から蘇州へ移動した。杭州を14時56分に出て、蘇州に16時36分到着するD3142次電車に乗った。ほぼ定刻に蘇州に着き、午後5時過ぎには、『苏州太阳广场酒店』にチェックインしていた。

○『苏州太阳广场酒店』は、地下鉄石路站の駅前にあるホテルで、住所は、

  苏州市姑苏区上塘街111号

となっている。つまり、目の前の通りが上塘街と言うわけである。

○ホテル到着後、しばらく休んで、さっそく、蘇州の町へ繰り出した。目の前の上塘街を東に200m行くと、山塘街に出るはずである。まずは、中国の検索エンジン、百度百科が案内する上塘街から紹介したい。

      上塘街

      苏州城区西北部境内道路

上塘街是苏州城区西北部的一条街道,位于阊门外,上塘河南岸。路长1069.45米,路宽24米。

上塘街位于阊胥路北端西侧,东起渡僧桥南堍,西至上津桥接枫桥路。

江南水乡城镇,人们习惯将河道两岸街巷分别称为上塘、下塘。上塘以商家店铺居多,下塘以民居为主。本街依傍古运河(上塘河)南岸,交通运输便利,很早即为市面繁华的商业街。远在明朝初年,即是一条可供五马并行的大道,从阊门吊桥起,可经上塘街向西直达枫桥,称十里枫桥塘,因两岸植芙蓉,又名芙蓉塘,后因店铺及其他建筑挤占变狭,民国《吴县志》作上塘街(“吴县”栏下),《苏州城厢图》、《吴县图》、《苏州图》标上塘街。二十世纪三十年代,上塘街始设菜场,当时上塘街为石板街面,宽不过三四米,解放后改为弹石路面,1982年普安桥以东改为小方石人字纹路面。

旧时的上塘街是阊门外东西向的主要道路,东起吊桥,西至上津桥,依傍运河(今上塘河),交通运输便利,因而成为商号林立、市面繁荣的商业街。明朝初年,上塘街是一条可供五马并行的康庄大道。清代,原开在松江一带的数百家布庄纷纷迁到这里营业,染坊、踹坊等也随之聚集于此,成为棉布集市,道路逐渐被店铺挤占,成为寸金之地。上塘布市毁于咸丰十年的兵火,此后稍有恢复,但洋布充斥市场,终难再现往日盛况。

  上塘街_百度百科 (baidu.com)

○上塘街は東西に延びる1㎞ほどの通りの名である。運河に沿った通りで、その運河を4㎞ほど、西へ行ったところに、寒山寺が存在する。また、東へ200m行ったところにも、運河が走っていて、その運河を抜けると、蘇州城内に入る阊门になる。

○つまり、上塘街や山塘街は、蘇州城北西の城外の通りだと言うことになる。ここは中国各地から運河を用いて運ばれて来た荷物の集積所であって、市が立ち、栄えたところになったものと思われる。寒山寺の存在するところが京杭運河である。

○ちなみに、百度百科が案内する阊门は、次の通り。

      阊门[chāng mén]

      中国江苏省苏州市境内景点

阊门(拼音chāng mén),乃苏州古城之西门,通往虎丘方向。 阊门,从清代乾隆年间的《姑苏繁华图》中可以看出,阊门内城门临阊门大街(今西中市),上有城楼,类似盘门城楼。外城门靠吊桥,瓮城为长方形,瓮城内另有套城,并还有南、北两个童梓门。南童梓门通今南新路,北童梓门通北码头。

阊门是苏州城八门之一,位于城西北。“阊”是通天气之意,表示吴国将得到天神保佑,日臻强盛。又因吴欲灭楚,该门方位朝对楚国,故亦名破楚门。

  阊门_百度百科 (baidu.com)

○ついでに、京杭運河については、ウイキペディアフリー百科事典で案内したい。

      京杭大運河

京杭大運河(けいこうだいうんが)は、中国の北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河である。途中で、黄河長江を横断している。戦国時代より部分的には開削されてきたが、文帝煬帝がこれを整備した。完成は610年。運河建設は人民に負担を強いて隋末の反乱の原因となったが、運河によってなどの穀物などの各種の戦略的原材料が経済の中心地江南と政治の中心地華北の間で輸送され(漕運[1]、さらに軍事上の要地涿郡にある大都(後の北京)が結合して、中国統一の基盤が整備された。この運河は、その後の歴代王朝でも大いに活用され、現在も中国の大動脈として利用されている。2014年の第38回世界遺産委員会シルクロードなどとともに世界遺産リストに登録された。

  京杭大運河 - Wikipedia

○蘇州が水の都であることは間違いない。それを象徴するのが蘇州城であり、京杭運河であり、上塘街、山塘街である。以前、2013年3月に、蘇州を訪れ、二泊して、丹念に蘇州を歩いた記憶がある。

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