○2023年12月18日に、ブログ『吉野ケ里フィーバー 幕開け』を書いて、その後、『朝日新聞『吉野ケ里フィーバー 幕開け』記事を読んで』、『朝日新聞『吉野ケ里フィーバー』記事顛末記』、『朝日新聞『吉野ケ里フィーバー』記事顛末記蛇足』と続けている。
○もともと、2023年11月27日付、朝日新聞記事「吉野ケ里フィーバー 幕開け」自体が、何とも詰まらない記事である。ブログに書くに堪えない内容だと思うが、黙認はいけない。それでブログ『吉野ケ里フィーバー 幕開け』を書いた。
○ブログに書けば書いたで、あまりに問題が多過ぎて次々と続編を書く羽目となった。吉野ケ里遺跡が邪馬台国であることはあり得ない話である。何故なら、吉野ケ里遺跡には、邪馬台国である根拠がまるで無い。今回は、その検証になる。
○畿内には嘗て大和国が存在し、邪馬台国の名がそのまま受け継がれていることが判る。しかし、吉野ケ里遺跡にそういうものは何もない。前回指摘したように、畿内の大和国には、大和国を代表する山、大和三山が存在する。
○大和三山とは、また何とも立派な名前である。大和国を代表する名山だから大和三山と言う名であることは、誰が考えても判ることである。私見によれば、「万葉集」には香具山が十四回、畝傍山が六回、耳成山が三回記録されている。
○意外なことに、大和三山を最も記録しているのは「万葉集」なのである。つまり、私たち日本人は、「万葉集」に拠って大和三山を理解しているとも言えよう。「万葉集」以外で、大和三山が記録されている書物は、意外に少ない。
○当古代文化研究所では、その大和三山について、長い間、検証を重ねて来た。実際、奈良県橿原市を訪れ、これまで、8回、大和三山に登っている。
第1回 1992年3月28日
第2回 2003年8月11日
第3回 2005年5月10日
第4回 2009年3月29日
第5回 2010年4月3日
第6回 2011年5月3日
第7回 2021年2月3日
第8回 2022年12月19日
○結果、大和三山はレプリカであって、本物では無いことを、すでに、1992年3月28日時点で確認を済ませている。もう30年以上も前のことである。ちなみに、大和三山とは、次の山々を指す。
・畝傍山(199.2m)
・香具山(152.4m)
・耳成山(139.7m)
○判るように、大和国を代表する名山が200mにも満たない小山であるはずがない。どう考えてもおかしい。そのことは、「万葉集」を読むともっとよく判る。例えば、舒明天皇の国見の歌と言う長歌がある。
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香久山
登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ
海原は 鷗立ち立つ うまし国ぞ 秋津島 大和の国は
○これはどう考えても海辺の風景だろう。しかし、天の香具山の存在する奈良県橿原市に海は存在しない。こういう問題が「万葉集」の大和三山歌にはいくらでも存在する。
○それを万葉学者先生は、奈良県橿原市に存在する大和三山で、何とか、説明しようと、悪戦苦闘なさっている。しかし、それは無駄な努力と言うものである。
○もともと、大和三山は、もっと立派な、それこそ、国を代表するような名山だったのである。それは奈良県橿原市に存在する大和三山とは、まるで別物である。当古代文化研究所では、1992年3月28日時点で、そのことに気付いていた。それで、そのことを確認するために、はるばる、日向国から大和国を訪れた次第である。
○本物の大和三山は、次の山々を指す。
・うねびやま=霧島山(1700m)
・かぐやま=桜島山(1111m)
・みみなしやま=開聞岳(924m)
日向国に存在したのが、この山々である。ただ、大和三山が二つもあっては、何とも紛らわしい。それで、当古代文化研究所では、従来の大和三山を、そのまま大和三山とし、本物の大和三山である日向国の山々を邪馬台国三山と命名することとした。
○それは、中国の正史「三国志」が記録する邪馬台国の所在地が邪馬台国三山の所在地と一緒だからである。ちなみに、「三国志」倭人条1966字の主題は、倭国三十国の案内にある。そして、それは次のように案内される。
【渡海三国】
・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
【北九州四国】
・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
【中九州二十国】
・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
【南九州三国】
・投馬国・邪馬台国・狗奴国
○この「投馬国・邪馬台国・狗奴国」が、旧日向国になる。陳壽の倭国三十国の案内は、何とも、見事、天晴れ、称賛する以外無い。誰がこんな創意工夫を案出したか。驚き、呆れる。お陰で、三世紀に書かれた「三国志」倭人条1966字を、誰も読み解くことができなかった。
○日本最古の史書とされる「古事記」や「日本書紀」でも、そのことは裏付けできる。実は、「古事記」や「日本書紀」では、大和三山を日本創世の世界山として案内している。ところが、誰もそのことに気付いていない。何とも不幸な話である。
○その山は、天孫降臨の世界山と言う。「古事記」では、次のように記す。
竺紫日向之高千穂之久士布流多気(つくしのひむかのたかちほのくじふるたけ)
「日本書紀」では、次のように記す。
日向襲之高千穂峯(ひむかのそのたかちほのたけ)
槵日二上天浮橋(くしひのふたがみのあまのうきはし)
筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯(つくしのひむかのたかちほのくじふるのたけ)
日向の槵日の高千穂之峯(ひむかのくしひのたかちほのたけ)
日向襲之高千穂槵日二上峯天浮橋
(ひむかのそのたかちほのくしひのふたがみのたけのあまのうきはし)
日向の襲の高千穂の添山峯(ひむかのそのたかちほのそほりのやまのたけ)
○誰も真面目に、天孫降臨の世界山すら、探そうとしないで、ここかしこが天孫降臨の世界山だとおっしゃる。しかし、そんなことはない。日向国では、古来、霧島山高千穂峰が天孫降臨の世界山だと決まっている。
○判るように、大和三山の筆頭、畝傍山が天孫降臨の世界山なのである。逆に、だから、畝傍山は、大和三山の筆頭なのである。何故なら、ここから日本は始まったのだから。
○日本の歴史は、そういうふうに始まっている。実は、当古代文化研究所は、昨日、2023年12月27日にも、霧島山高千穂峰に登って来た。霧島山高千穂峰山頂では、天孫降臨の尊、彦火瓊々杵尊が高千穂峰山頂で見た風景を、今でも普通に見ることができる。
○そういう話を吉野ケ里遺跡ですることはできない。それだけのことである。虚像は虚しい。