神武東征と神功皇后 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○前に、「日本書紀」神功皇后紀に、「日本書紀」編纂当時、卑弥呼を神功皇后になぞらえていた節があると書いた。そのことは「日本書紀」割註に、次のように記してある。

  【(神功皇后)三十九年。是年也。太歳己未。】

  魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難升米等、

  詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏将送詣京都也。

  【(神功皇后)四十年。】

  魏志云、正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。

○確認すると、景初三年は西暦239年で、その干支は間違いなく己未であることが判る。その前の己未は西暦179年であり、その後の己未は299年になる。「日本書紀」編纂当時に、こういうことを確認していることに感心する。

○ただ、このことは、日本の歴史上で、女帝が活躍した時代が少ないことから生じた問題であるような気がしてならない。もっとも、「古事記」や「日本書紀」は八世紀に編纂された史書であって、当時の歴史観が色濃く反映されている。ここの記録もそういうものの一つであると思われる。

○したがって、「古事記」や「日本書紀」を鵜呑みにすることはできない。当然、丁寧な文献批判が必要である。「古事記」や「日本書紀」は必ずしも聖典では無いのである。

○そういう意味で気になるのは、神武東征の話になる。「日本書紀」によれば、それは己未年(紀元前662年)のことだと言う。しかし、中国の正史「三国志」を読むと、三世紀に薩摩半島に邪馬台国が存在したとある。狗奴国も大隅半島に存在したことが確認できる。

○そう考えると、意外に、神武東征は、結構新しい時代であるとするしかない。そういうものを脚色しているのが「古事記」であり「日本書紀」だと判断する。そういう点では、神功皇后の存在は気になる。

○第一、神功皇后の出現は、あまりに唐突に過ぎる。それも北九州に出現するのだから、意外性は十分である。そして、最終的には、大和国へ上って行く。まさにそれは神武東征ならぬ神功東征である。

○もう一つ、神功皇后の宗教が気になって仕方が無い。神功皇后と言えば、応神天皇の母君である。その応神天皇を主祭神とするのが八幡宮である。その八幡宮の大元が宇佐八幡宮である。ちなみに、ウイキペディアフリー百科事典が案内する宇佐八幡宮は、次の通り。

      宇佐神宮

宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社式内社名神大社3社)、豊前国一宮勅祭社旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社

全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。石清水八幡宮筥崎宮(または鶴岡八幡宮)と共に日本三大八幡宮の一つ。古代においては伊勢神宮と共に二所宗廟として扱われた。八幡宇佐宮または八幡大菩薩宇佐宮などと呼ばれた。また神仏分離以前は神宮寺の弥勒寺(後述)と一体のものとして、正式には宇佐八幡宮弥勒寺と称していた。

現在でも通称として宇佐八幡とも呼ばれる。

  宇佐神宮 - Wikipedia

○その宇佐神宮で斎き祀られているのが神功皇后であることも見逃せない。宇佐神宮の主祭神には、次のようにある。

      宇佐神宮:主祭神

  主祭神は以下の3柱。

    ・一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) - 誉田別尊(応神天皇)とする。

    ・二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) -

             宗像三女神多岐津姫命市杵島姫命多紀理姫命)とする。

    ・三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう) - 別名として息長足姫命とも。

主神は、一之御殿に祀られている八幡大神応神天皇であるが、ただ実際に宇佐神宮の本殿で主神の位置である中央に配置されているのは比売大神であり、なぜそうなっているのかは謎とされている。また下宮でも主祭神は同じであるが、一之神殿の相殿には大神祖神社として大神比義命(おおがのひぎのみこと)が祀られる。

○前回、ブログ『住吉三神の故郷』で触れたが、住吉三神の故郷は鹿児島県曽於市末吉町二之方住吉だとするしかない。その住吉三神とともに斎き祀られているのが神功皇后である。つまり、神功皇后は住吉神社でも八幡神社でも斎き祀られていることが判る。

○そういうことを考慮に入れると、歴史が見えて来る。三世紀末から四世紀にかけて、南九州は未曽有の天災に見舞われた。それは多分、台風などの被害ではない。国土が焼失するほどの大天災だった。それで止む無く、人々は移住を決意する。

○狗奴国では神武天皇が主導して大和国を目指した。投馬国では神功皇后のもとで移住が行われた。神功皇后が目指したのは摂津国だった。何故、大和国や摂津国を目指したかと言うと、すでに、多くの人々が邪馬台国から大和国に移住していたからである。

○したがって、大和国の一宮は大神神社と申し上げる。天皇家の神様では無い。出雲神である。その出雲神の故郷も邪馬台国である。古代で宗教は第一である。その宗教を追い続けると、そういうことが判る。古代は宗教を抜きに語ることはできない。

○現在では、宗教の自由が保障されている。しかし、もともと宗教とは、その民族、人々固有のものであって、宗教の選択など、考えられないものだった。生まれた時に、それは運命として決まっていた。それが宗教である。

○そういう意味で、神功皇后が住吉神の奉仕者であったことの意義は大きい。神功皇后の出自は、おそらく諸県である。そのことは、応神天皇紀や仁徳天皇紀を読むと、判る。当古代文化研究所では、そういうふうに判断する。