吉野ケ里遺跡とは何か | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○前回、、ブログ『神埼郡吉野ケ里町』でも紹介したが、「肥前国風土記」が案内する郡は、次の十一郡になる。

  基肄郡  養父郡  三根郡  神埼郡  佐嘉郡  小城郡

  松浦郡  杵島郡  藤津郡  彼杵郡  高來郡

○このうち、彼杵郡 と高來郡と松浦郡の一部が長崎県で、残りは全て佐賀県となる。それが江戸時代までの肥前国の概念となる。地元の方以外で、そういう意識を抱いて歴史認識が出来ている人は少ないのではないか。

○このうち、基肄郡・養父郡・三根郡の三郡は明治29年(1896年)に統合されて三養基郡となっている。そのウイキペディアフリー百科事典が案内する三養基郡は、次の通り。

      三養基郡

三養基郡(みやきぐん)は、佐賀県

人口52,384人、面積86.87km²、人口密度603人/km²。(2023年3月1日、推計人口

以下の3町を含む。

  ・基山町(きやまちょう)

  ・上峰町(かみみねちょう)

  ・みやき町(みやきちょう)

1896年に行政区画として発足した当時の郡域は、上記3町のほか、現在の鳥栖市の全域にあたる。

明治29年(1896年4月1日 - 基肄郡養父郡三根郡の区域をもって発足。以下の各村が所属。(11村)
  ・旧・基肄郡(3村) - 基山村(現・基山町)、田代村基里村(現・鳥栖市)
  ・旧・養父郡(5村) - 轟木村麓村旭村(現・鳥栖市)、中原村北茂安村(現・みやき町

  ・旧・三根郡(3村) - 南茂安村(現・みやき町)、上峰村(現・上峰町)、三川村(現・みやき町)

  三養基郡 - Wikipedia

○このように、基肄郡・養父郡・三根郡が三養基郡と縮小されたことは、非常に気になる。古代に基肄郡・養父郡・三根郡であったものが近代になって三養基郡となったことは、古代に、それだけこの地域が重要な地域であったことを意味する。そうでないと、ここに、基肄郡・養父郡・三根郡の三郡が存在し得ないはずである。

○そのことは、現在の大阪府が、嘗て摂津国・河内国・和泉国の三国であったこととも共通するのではないか。畿内と言うと、大和国・山城国(山背国)・河内国・和泉国・摂津国の五国になるが、そのうち、河内国・和泉国・摂津国は、おおよそ、現在の大阪府に該当する。それ程、この時代、現在の大阪府の存在が大きかったことを見逃がしてはなるまい。

○ただ、吉野ケ里遺跡が存在するのは、三養基郡ではなく、神埼郡になる。明治22年(1889年) 町村制の施行時には、次の十一の村々だった。

  神埼村  西郷村  城田村  境野村  蓮池村

  千歳村  三田川村  東背振村  仁比山村  背振村  三瀬村

○現在の『神埼郡吉野ケ里町』の該当する三田川村・東背振村は、明治22年(1889年) までは、次の村々だった。

  ・旧三田川町:吉田村、田手村、箱川村、豆田村

  ・旧東脊振村:大曲村、石動村、三津村、松隈村

○その中の、旧三田川町の田手村の一部が、吉野ケ里と言うことになる。現在、吉野ケ里地名が一人歩きしているようで、非常に、気になる。その実態がどういものであるか。そのことを意識することを忘れてはなるまい。

○その肥前国国府が、嘗ての佐嘉郡にあり、現在の佐賀市大和町惣座にあったことも、気になる。現在の佐賀県庁の存在する佐賀城内からは、10㎞ほど北に位置する。国分寺跡も国府近くに存在する。

○面白いのは、肥前国安国寺が神埼市神埼町朝日に存在し、利生塔が神埼郡吉野ヶ里町田手に存在したと言うことである。つまり、律令時代から足利尊氏の生きた14世紀まで、この神埼郡周辺を中心に、肥前国の中心が存在したと言うことになる。

○特に、利生塔が存在するのは、神埼郡吉野ヶ里町田手1728の東妙寺と言うお寺になる。何と吉野ケ里歴史公園のすぐ隣なのである。歴史に素人の当古代文化研究所でも、これくらいのことが確認できる。

○吉野ケ里遺跡とは、何か。このように、なかなか面白い。考古学者先生のおっしゃる吉野ケ里遺跡とは、全然別の顔が見えてくる。当古代文化研究所には、これが本当の吉野ケ里遺跡の姿であるような気がしてならない。