和田の鼻・椚島・樋島 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2022年8月28日は、天草上島の龍ケ岳へ登っ後、大道港へと向かった。大道港には、6月に御所浦島からフェリーに乗って訪れている。大道港からは、御所浦島や横浦島がきれいに見えていた。

○また、これから向かう和田の鼻や椚島、樋島なども遠望された。今回の旅行では、初めて、天草上島の東海岸を走ることになる。珍しい風景ばかりで、寄り道ばかりしている。

○椚島は「くぐしま」と呼ぶ。何とも風変わりな地名である。樋島の入り口の島と言うことなのだろうか。インターネット検索でも、殆んどヒットしない。わずかにヒットしたのが次のページである。

      椚島のアンモナイト産地(くぐしまのアンモナイトさんち)

      場所:上天草市龍ヶ岳町

上天草市竜ヶ岳町の高戸地区周辺や樋島・椚島、天草市の御所浦島には、花こう岩類が分布します。これは天草のほかの地層よりも古く、天草下島西海岸の長崎変成岩と同様に、天草諸島の基盤の一つになっていると考えられています。花こう岩類の年代は約1億年前と推定され、その上は姫浦層群に覆われています。姫浦層群が堆積したのは約8,500万年前で、アンモナイト類やイノセラムス(二枚貝)など多くの化石を産出します。

  おすすめスポット(天草東エリア) / 海にうかぶ博物館 あまくさ【公式】 (amakusa-web.jp)

○天草上島と椚島とは、小さな橋で繫がれている。その椚島の先に坊主島があって、坊主島と樋島との間に、樋島大橋と言う立派な橋が架かっている。天草上島の突端が和田の鼻になる。龍ケ岳山頂からきれいに見えた風景である。

○樋島について、最も詳しいのは、次のページではないか。

      樋島

樋島(ひのしま)天草諸島
★古くから水の島
●住所/熊本県上天草市龍ヶ岳町樋島
●面積/3.46km2●周囲/12.2km●標高/232.8m●人口/1,140人(H27)・1,339人(H22)・?(H17)・1,732人(H12)・1,924人(H7)国勢調査
●アクセス/
【船】三角港→樋島港(1時間2分)
【車】熊本市内→三角→大矢野島→松島(国道266)→樋島(約2時間)

【概要】

★樋島は上天草市の南部にある島。上島と樋島の間には椚島(くぐしま)と坊主島があるため、見る位置によっては陸続きのようにも見えるが、実際には離島で、昭和47年9月に樋島大橋が開通したことで陸路移動ができるようになった。
★樋島大橋は全長が174m、車一台分と歩道だけの幅の狭い橋で、入口と出口に信号機が取り付けられ、交互に車が通行できるようになっている。
★樋島の「樋」の字は「とい」のことで、雨が降って屋根を流れる水を受け止め、地面の排水溝へと導く管は「雨樋(あまどい)」。樋島は昔から水が豊富な島だったからそういう名前が付いたのだろう。景行天皇が九州巡幸の帰りに、この島で水の補給をしたという言い伝えさえあり、古くは水島と呼ばれていたこともあるという。
★立ち寄ったのは景行天皇だけではなく、弘法大師伝説もある。弘法大師とは真言宗の開祖“空海”のことで、日本全国に数え切れないほどの所縁(ゆかり)の地がある。その弘法大師が樋島の南端にある大岩にお経を書いて、そのまま芦北へ向おうと舟に乗ると、一つの文字に点を打つのを忘れたのに気付き、舟の上から筆を投げて完成させたという話がある。「弘法も筆の誤り」の逸話として何処かで聞いたような話だが、その大岩の下に不動神社があり、立派な土俵が作られている。毎年旧暦8月15日になると奉納相撲が行われ、「赤ちゃん泣き相撲」はいつも観客の笑顔を誘っている。
★島の北部にある安向山観乗寺は建立が慶長9年(1604年)と古く、浄土真宗の寺としては熊本県内でも有数のものとして挙げられている。
★天草は寛永18年(1641年)に徳川幕府の直轄天領になった。天草全土は10の組に分けられ、それぞれに大庄屋(おおじょうや)という役人が置かれた。現在の龍ヶ岳町・姫戸町・御所浦町・倉岳町の辺りを砥岐(とき)組として纏め、最初は棚底村の七右衛門が大庄屋に選ばれたが、その後寛文元年(1661)から慶応4年(1866)までの206年間、樋島村の藤田家が大庄屋としてこの地を治めてきた。島の北部には大庄屋跡が残されている。
★天草は地層が古いことで知られているが、この樋島もかつては立派な「アンモナイト」や「イノセラムス」などの化石が見つかっていた。

  樋島(ひのしま) (nihonshima.net)

○現在、樋島をインターネット検索しても、現れるのは釣りの情報ばかりである。それ程、樋島は釣りで有名な島である。行ってみると判るのだが、好釣り場が至るところに出現する。島だから瀬通しも良い。申し分無い釣り場である。

○上記説明には、

   樋島の「樋」の字は「とい」のことで、雨が降って屋根を流れる水を受け止め、

  地面の排水溝へと導く管は「雨樋(あまどい)」。樋島は昔から水が豊富な島

  だったからそういう名前が付いたのだろう。

とあるけれども、漢字が先にあったのではあるまい。「ひのしま」呼称に、樋島の当て字を付したに過ぎない。こういう牽強付会はいかがなものか。樋島の位置関係からすると、東の島の謂いで、太陽の昇る島ではないか。

○それよりも、水島伝承の方が気になる。

   景行天皇が九州巡幸の帰りに、この島で水の補給をしたという言い伝えさえあり、

  古くは水島と呼ばれていたこともあるという。

現在、八代の球磨川河口に水島はある。意外に、樋島が水島だったのかも知れない。八代の水島はあまりに小さ過ぎるからである。