天草瀬戸大橋 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○実は、昨日、2023年3月8日まで、天草に居た。3月6日から8日に掛けて、『天草大矢野島探検旅』と題して、大矢野島の小松屋渚館に泊まって、大矢野島を中心に回って来た。これまで、大矢野島は通過するだけで、一回も満足に訪れたことが無かったからである。

○昨日は、帰り道、せっかくなので、上天草島から下天草島へと抜けて、中田港からフェリーに乗って、長島の諸浦港まで行って帰ることとした。何回、天草を訪れても、いろいろと発見することは多い。去年は、6月、7月、8月2回と、都合4回、天草を訪問している。今年の最初の天草訪問が3月だった。

○それもこれもテーマ「海の民の肥国をさるく」を追求するがための訪問であることは言うまでも無い。肥国がどういう国だったか。今どき、そういうことを誰も考えない。面白いことに、肥国が最も栄えた時代が古代であったことを、「古事記」が次のように記録している。

  ・筑紫国:白日別
  ・豊国:豊日別
  ・肥国:建日向日豊久士比泥別
  ・熊曾国:建日別

○これが何を意味するか。考えることは、決して容易では無い。それは、何よりも、その判断材料が無いからである。それで、当古代文化研究所では、隈なく肥国を歩いて、その判断材料探しをすることから始めたわけである。

○現在、天草は、行政上、苓北町・天草市・上天草市の三つに区分されている。この区分の仕方は、なかなか興味深い。どうせ、三区分するなら、大矢野島・上天草島・下天草島の三区分で十分だろうと、素人は考える。しかし、現実はそうではない。

○それは天草が「海の民の肥国をさるく」の国だからであるに他ならない。つまり、天草の動線は三つあることが判る。それが、北からの動線=苓北町であり、南からの動線=天草市、東からの動線=上天草市だと言うわけである。それがそのまま現在の行政区分となっている。

○江戸時代、最も太い動線は北からの動線=苓北町だった。それが現在では、最も小さくなっている。それが時代の趨勢と言うものなのだろう。逆に、現在、最も勢いを得ているのが、東からの動線=上天草市だと言うことになる。特に天草五橋ができて、九州本土と繋がったことは大きい。

○昔からの天草の本質が南からの動線=天草市であることに、変わりは無い。しかし、それも時代に連れて徐々に変化していることも事実である。天草を研究することは、そのまま肥国を研究することに繋がる。当古代文化研究所では、そういうふうに判断して検証を重ねている。

○その天草市の行政上の中心が本渡になる。前々回、ブログ『本渡』を書き、前回、『本渡瀬戸』を書いて、天草の中心が本渡であるわけを見て見た。今回は、その続きで、『天草瀬戸大橋』になる。ある意味、それは本渡瀬戸大橋の意でもある。ウイキペディアフリー百科事典がそういうふうに案内しているので、それに従ったまでのことである。

      天草瀬戸大橋

天草瀬戸大橋(あまくさせとおおはし)は、熊本県天草市にある本渡瀬戸に架かる道路橋である。本項では、並行している天草未来大橋(第2天草瀬戸大橋)および同じ本渡瀬戸にかかる本渡瀬戸歩道橋についても記述する。

天草の上島下島をつなぐ橋であり、国道266号および国道324号に指定されている。全長約700 m。瀬戸を航行する船舶を考慮して、桁はその高さに架けられており、海面からの高さを確保するため、橋の両端はループ橋となっている。

本橋は本渡瀬戸にかかる橋としては3代目である。本橋の完成以前は自動車交通と船舶の航行を両立させる可動橋が建設されていたが、1970年代には、本渡瀬戸を航行する船舶と道路交通量それぞれの増加により、交通渋滞が激しくなったため、本橋の架設が計画され、1974年5月に完成した。

  天草瀬戸大橋 - Wikipedia

○昨日、2023年3月8日、泊まっていた大矢野島の小松屋渚館から下天草島の中田港へと向かった。その際、本渡を通った時、天草未来大橋が架かっているのを見て驚いた。去年、ここを6月、7月、8月2回と、4度も通っているのに、見なかった光景である。何でも、2023年2月25日に完成したばかりだと言うから、まだ十日くらいしか経っていない。残念なことに、知らなかったので、写真を撮ることも出来なかった。

○天草の躍進振りは凄い。天草の中田港と長島の諸浦港を結ぶフェリーロザリオも新調されていた。新しい船は「ロザリオ・カーム」と言う。前のフェリーロザリオと全く同じ船型なので、言われないと判らない。前のフェリーロザリオは獅子島の片側港に停泊していたので、それがよく判った。