福江武家屋敷通り | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2022年7月8日は福江島を左回りに周回して、頓泊海水浴場まで行って引き返した。翌日、9日は福江島を逆に右回りで周回することにして、鬼岳を回って、富江港まで行き、その後、玉之浦町から三井楽町、岐宿町と西海岸を北上した。これで、一応、一通り、福江島を全部周回できたことになる。

○その後、福江町に帰り着いたのが午後2時30分ほどで、最後に、福江の町中の観光が待っていた。その最初に訪れたのが福江武家屋敷通りである。ここには、武家屋敷通りふるさと館が設置されていて、福江武家屋敷通りを敢行するための起点となっていた。

○インターネットで、福江武家屋敷通りを検索すると、次のページがヒットした。

      武家屋敷通り

幕末に建てられた福江城(石田城)近くに、ほとんどそのままに当時のたたずまいを残している武家屋敷通りがあります。当時、ここには、30~40石の五島藩に仕えた中級武士たちの屋敷が並んでいたといわれています。

武家屋敷の周りを囲んでいる石垣は、鬼岳などが噴火した際に流れ出た溶岩が冷え固まってできた石を利用したもので、島の成り立ちをうまく生活に活かしたものの代表例といえます。この辺りの石垣塀は、切石を隙間なく積み重ねた上に玉石を載せた特徴的な「こぼれ石」と呼ばれる構造で、日本で数ヶ所しか確認されておらず大変貴重なものです。敵が石垣塀を越えて屋敷に忍び込もうとするとこぼれ石が落ち、その音で侵入が分かる仕組みになっていたとか。こぼれ石の横に置かれている蒲鉾型の石は「脇石(わきいし)」といって、こぼれ石を留めるほか、目印としても使われていたようです。

  武家屋敷通り | スポット・体験 | 五島の島たび【公式】- 長崎県五島市の観光・旅行情報サイト (nagasaki-tabinet.com)

○実際、福江武家屋敷通りに建っている案内板には、次のようにあった。

      福江武家屋敷通り

      福江武家屋敷大道

   五島市の福江地区は、五島藩の城下町として発展してきた。

   寛永11年(1634)、第2代藩主五島盛利は、五島における中央集権体制を目指し、

  各地に散在していた家臣を福江城下に強制的に住まわせた。いわゆる「福江直り」で

  ある。この時造られた武家屋敷通りが今なお、福江地区内の各所に石垣として残され

  ている。

   福江の中心部には上級武士の屋敷が造られ(現在の商店街通り)、周辺部に中・下級

  武家屋敷、さらに商人町・職人町などが出来た。

   市内で最も保存状態の良いこの武家屋敷通りは、中級武士が住んでいた通りである。

  約400m続く石垣は、溶岩塊の石垣を積み上げ、その上にこぼれ石といわれる丸石を

  積み重ね、両端は蒲鉾形の石で止められ、全国的に見ても類例をみない造りとなって

  いる。門は、ほとんどが薬医門とよばれる門構えになっている。

   通りの西端には、二つの市指定文化財がある。一つは史跡「福江武家屋敷跡」(現在

  のふるさと館)。石垣、庭園が残されており、特に庭園は築山を築き、三尊石組みを配

  するなど、見事な庭園構成になっている。

   もう一つは有形文化財「武家屋敷 松園邸」。文久3年(1863)建築以来幾度か修理

  を重ねてきているが、藩政時代の武家屋敷が当時のまま保存されてきている。

○福江武家屋敷通りの二つの市指定文化財についての案内板には、次のようにあった。

      市指定史跡 福江武家屋敷跡

   当武家屋敷跡は、五島家家臣の一人藤原氏の屋敷跡で、居宅自体は明治末期に

  建て替えられ、その後の台風等の被害により解体されるが、庭園、石垣等はよく保存

  されている。

   庭園は、五島家庭園と同じ林泉式庭園であり、庭園文化的価値は高いものである。

  また敷地内には、梅の古木、日本では珍しいナンヨウスギが植えられている。

   石垣は、上部にこぼれ石と称される丸い小石を半円型に積み重ね、その両端はかま

  ぼこ型の石で止め、全国でも類例を見ない造りとなっている。

   松園邸とともに武家屋敷通りの歴史的景観を構成する貴重な文化財である。

      市指定有形文化財

      武家屋敷 松園邸

   五島市福江の武家屋敷通りの石垣は、全国にも類例をみない造りとなっている。

  溶岩塊の石垣を積み上げ、その上には「こぼれ石」といわれる丸石を積み重ね、

  両端は蒲鉾形の石で止められている。門は、ほとんどが薬医門と呼ばれる門構え

  で、堂々たる造りとなっている。

   武家屋敷通りの中でも、唯一建築当時のまま残されているのが、この「武家屋敷

  松園邸」である。

   文久3年(1863)建築以来、幾度か修理は重ねてきているが、石垣、屋敷などは

  藩政当時の武家屋敷が当時のままで保存されている。

   平成3年には屋根瓦の全面葺き替えを、平成7年には老朽化した薬医門を改築した。

○当古代文化研究所のある南九州には、多くの武家屋敷通りが存在する。いわゆる麓と呼ばれる集落である。昨年、甑島へ行き、そういう薩摩藩の武家屋敷群について、次のブログを書いている。

  ・テーマ「甑島周遊」:ブログ『里麓:武家屋敷跡]』

  里麓:武家屋敷跡 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

  ・テーマ「甑島周遊」:ブログ『里村郷土誌:里麓と郷士屋敷図』

  里村郷土誌:里麓と郷士屋敷図 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

  ・テーマ「甑島周遊」:ブログ『武家屋敷群「里麓」を歩く』

  武家屋敷群「里麓」を歩く | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

  ・テーマ「甑島周遊」:ブログ『手打麓武家屋敷通り』

  手打麓武家屋敷通り | 古代文化研究所 (ameblo.jp)