◯ここまで、ブログ『魏志倭人伝の主題』、『魏志倭人伝の序文』、『中國失禮、求之四夷』、『邪馬台国への道』、『所有無與儋耳硃崖同』、『會稽、東冶之東』と、魏志倭人伝を見て来て、ようやく、邪馬台国の所在地が見えて来たような気がする。それで、ここで整理しておきたい。
◯まずは、ブログ『魏志倭人伝の主題』で考えた魏志倭人伝の主題であった倭国三十国の案内から。魏志倭人伝では、倭国三十国を次のように案内していた。
【渡海三国】
・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
【北九州四国】
・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
【中九州二十国】
・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
【南九州三国】
・投馬国・邪馬台国・狗奴国
◯これで、三世紀当時、中国の魏国が認識する倭国三十国は、上記のようであることが判る。何とも凄まじい案内であることに、驚く。こんなに判り易い案内も無い。こういうオリジナルの案内ができるところが中国の史家の面目躍如であることは言うまでもない。
○忘れてならないのは、魏志倭人伝が記録しているのは、決して倭国全体では無いと言うことである。魏志倭人伝が記録しているのは、あくまで、中国の魏国が認識する倭国三十国のみだと言うことである。もちろん、倭国には、当時、魏国が認識する倭国三十国以外にも、数多くの国々が存在していたと言うことである。
○つまり、三世紀当時、魏国が認識していた倭国は三十国のみであって、それは九州島になる。そのことを忘れてはなるまい。魏志倭人伝はその序文にしっかり、
今使訳所通三十国。
と明記している。
○つまり、邪馬台国が存在したのは、南九州であって、後世、そこは熊曾国とも呼ばれた。熊曾国と言うと、現代人には、何か熊でも居るような、恐ろしい国のように思われるが、そうではない。熊曾国とは神の国の謂いである。神様の国が熊曾国なのである。
○その熊曾国には三つの面があった。それは現在まで続いている。それを魏志倭人伝では、「投馬国・邪馬台国・狗奴国」としている。後世、それは日向国・薩摩国・大隅国に分かれる。ほとんど、それがそのまま「投馬国・邪馬台国・狗奴国」に合致する。
○現在で言うと、投馬国は宮崎県、邪馬台国が薩摩半島、狗奴国は大隅半島となる。これが昔の熊曾国であって、旧日向国になる。したがって、日向神話の日向国の中心は、決して宮崎県ではない。旧日向国の中心は、あくまで、薩摩半島であったことが判る。それが魏志倭人伝が記す邪馬台国の正体であり、邪馬台国の所在地だと言うことになる。
◯次に、ブログ『邪馬台国への道』で案内した帯方郡から邪馬台国までの道程である。それは次のように案内された。
【帯方郡から邪馬台国への道程】
・帯方郡→狗邪韓国 七千余里
・狗邪韓国→対馬国 千余里
・対馬国→壱岐国 千余里
・壱岐国→末廬国 千余里
・末廬国→伊都国 五百里
・伊都国→ 奴国 百里
・ 奴国→不弥国 百里
・不弥国→投馬国 千五百余里
・投馬国→邪馬台国 八百余里
・末廬国→邪馬台国 二千余里
◯これまた、何とも判り易い案内である。この表現もまた、陳壽オリジナルの案内であることは言うまでもない。中国の正史である「三国志」を編纂した陳壽の実力は、こんなものである。誰も陳壽には敵わない。それが中国の正史を書く者の実力である。誰もがその才能に驚き、呆れる。こんな人と競争する人は誰も居ない。
○続けて、ブログ『所有無與儋耳硃崖同』で検証したように、陳壽の倭国の認識の仕方を理解することが必要になってくる。それは、陳壽が倭国認識に於いて、極めて重要だと判断していることを意味する。つまり、中国人が倭人がどういう人々であるかを理解することができる、重要な問題でもある。
○それが倭国は百越の一つだとする、中国の伝統的な考え方になる。それはまた、次のブログ『會稽東冶之東』とも、密接に関係してくる。この『會稽東冶之東』の意味することを本当に理解することが、倭国理解には欠かせない。
○『會稽東冶之東』をよく理解すれば、次の邪馬台国への別の道が見えて来る。
・寧波→舟山群島(150km)
・舟山群島→吐噶喇列島宝島(600km)
・吐噶喇列島宝島→吐噶喇列島悪石島(50km)
・吐噶喇列島悪石島→吐噶喇列島諏訪之瀬島(24km)
・吐噶喇列島諏訪之瀬島→吐噶喇列島中之島(28km)
・吐噶喇列島中之島→吐噶喇列島口之島(14km)
・吐噶喇列島口之島→口永良部島(59km)
・口永良部島→硫黄島(36km)
・硫黄島→坊津(56km)
○日本三津の筆頭である坊津がどういうところであるかを、多くの人々は理解していない。当古代文化研究所では、これまで、何度も坊津を訪問している。坊津がどういうところであるかを理解すれば、古代日向国が見えて来るし、邪馬台国が見えて来る。
○つまり、それは邪馬台国の主交易港が坊津だと言うことである。それはすでに三世紀には開かれていた。それほど古い港なのである。だから、日本三津の筆頭になり得たのである。
○当古代文化研究所が、何故、これほど、邪馬台国に拘泥するのか。それはひとえに、邪馬台国の所在地が日本の始まりだからである。そういう壮大な絵が描けない限り、日本の始まりを語ることは難しい。次回は、そういう邪馬台国の主人公の話をしたい。