○そもそも、テーマ「投馬国はどんな国家だったか」を設けたのは、2015年3月7日のことで、次のブログから始めている。
・テーマ「投馬国はどんな国家だったか」;ブログ『投馬国はどんな国家だったか』
投馬国はどんな国家だったか | 古代文化研究所 (ameblo.jp)
・テーマ「邪馬台国の虚像と実像」;16個のブログ
邪馬台国の虚像と実像|古代文化研究所 (ameblo.jp)
・テーマ「邪馬台国その後」;62個のブログ
・テーマ「邪馬台国検証」;95個のブログ
・テーマ「日向国の邪馬台国」;149個のブログ
・テーマ「神代三山稜の研究」;16個のブログ
・テーマ「狗奴国・救仁国の風景」;48個のブログ
狗奴国・救仁国の風景|古代文化研究所 (ameblo.jp)
・テーマ「肝属町の三岳参り」;425個のブログ
○それに対して、投馬国については、まとめて書いていないことが気になっていた。それで機会を見付けて、投馬国について書いてみたいと思っていた。
○実は、「三国志」倭人条でも、投馬国に関する記録はほとんど無いのが実情である。南九州三国で、邪馬台国や狗奴国は大国である。それに対して、投馬国はほとんど登場しない。極めて影の薄い存在である。
○その投馬国で、最も存在感を示しているのが諸県氏である。諸県氏が存在したとされる諸県郡は現在でも存在し続けている。それくらい、大きな存在であったことが判る。
○つまり、投馬国を研究しようと思えば、諸県氏及び諸県郡を研究するに如くは無いと言えよう。ところが、諸県氏及び諸県郡については、これまで、ほとんど研究されていないのが実情なのである。だいたい、諸県氏が何処にその中心を置いていたかさえ、明らかにされていない。
○加えて、諸県そのものの意味すら、誰も明らかにできない。それでは、研究するにも、手掛かりさえ、見付からない。多くの人はそれで、諸県の研究を諦めている。
○ところが、宮崎県の地元の新聞社である宮崎日日新聞社が、遂に、立ち上がったのである。宮崎日日新聞文化欄で、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」の特集記事が始まった。第1回は2015年2月6日(金)であった。
○内容的には、少しずれるが、古代ヒムカの酋長が諸県氏であることは、万人が認めるところである。ひょっとしたら、宮崎日日新聞がとんでもない発見をしてくれるのではないかと、大いに期待した次第である。
○「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」の特集記事は、3月30日(月)に第15回を持って終了した。ただ、大山鳴動して鼠一匹も出なかったと言うところだろう。真新しい発見は一つもなかった。全く以て残念な話である。
○おそらく、宮崎日日新聞は、日向国の中心が何処であったかも、ご存知無い。宮崎県が日向国だと信じて止まない。もともと、日向国は、現在の鹿児島県本土部分と宮崎県を含むところである。非常に広い。その日向国の中心が何処であったか。それを明らかにしないで、日向国は語れない。
○諸条件を勘案すれば、もともと、日向国の中心は薩摩半島南部になる。日向国の主貿易港が坊津になる。日向国は海洋民族として発展した。ところが薩摩国・大隅国・日向国と分かれた八世紀に、もっとも日向国らしく無いところが日向国を名乗ったことで、多くの混乱が生じている。
○もともと日向国は西の国の意である。宮崎県が日向国を名乗るには、東の国が無いのである。それでは日向国にはならない。「日本書紀」の景行天皇紀の記述などを信じる人は誰も居ない。
○日本の歴史は日向国から始まったと「古事記」も「日本書紀」も記録している。しかし、その日向国の中心は、残念ながら、宮崎県では無いのである。宮崎日日新聞は、肝心のそういうことも理解していないで、論を進める。それでは真実には近付くことはできない。
○大事なのは、そういうことである。諸県郡にしたところで、多くの紆余曲折を経て来ている。諸県郡は、最初、大きく南北に分かれた。それはなぜか。そんなことも知らないで諸県の歴史が語れるはずもなかろう。
○投馬国は、どんな国家だったか。それが諸県郡を中心とした国家であったことは間違いない。その諸県氏の信奉した神が住吉神である。都城市志和池、上水流町に鎮座まします科長神社は、おそらく、そういう住吉神の一つである。詳しい話は、次回に繋げたい。