伴兼貞:肝属氏十一世薩摩守兼貞 | 古代文化研究所

古代文化研究所

古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○前回案内した平季基の後を継いだのが娘婿の伴兼貞になる。伴兼貞については、「三国名勝図会」、巻之三十六、大隅國曽於郡舊跡、橋野項目の最後に、

  季基が事は、都城の巻島津御荘の絛に詳なり、(兼貞が事績も、都城の巻島津御荘の絛に詳なり、)

と載せている。その島津御荘の絛には、次のようにある。

   季基は三俣院を領し、益貫に居る。女子一人ありて、男子なし。伴兼貞、(兼貞の事は、

  高山本城に見ゆ、)鵜戸権現に参詣せんと欲し、益貫に過ぐ。季基禮待して、是を留る

  こと一两月に及ぶ。遂に女子を配し三俣を譲る。季基宅を箸野に営て退老す。兼貞益貫

  に卒す。兼貞男子五を生す。長子は兼俊といふ。肝属に居る。因て肝属太郎と称す。

  是を肝属氏の宗とす。次に次郎兼任といふ。是を萩原氏の宗とす。次は三郎俊貞といふ。

  是を安楽氏の宗とす。次は四郎行俊といふ。是を和泉氏の宗とす。次を五郎兼高といふ。

  斎宮介となり、神柱の祀事を奉ず。是を梅北氏の宗とす。各荘官を以て其門を分ち、

  島津御荘の地に居る。梅北氏は世々三俣院梅北の地に居り、神柱社の事を主どる。

  今に至て然り。(鹿屋玄兼自記、及び肝付等五代の系圖。)

○「三国名勝図会」、橋野項目には、

  兼貞が事績も、都城の巻島津御荘の絛に詳なり、

とあるけれども、ここにはほとんど伴兼貞の事績が記されているわけではない。ただ、兼貞が平季基の娘婿となり、五人の子を儲けたと言うことくらいではないか。

○また、ここに、

  兼貞の事は、高山本城に見ゆ、

とあるから、「三国名勝図会」、巻之四十八、大隅國肝属郡高山の舊蹟、高山本城項目を見ると、次のように載せる。

      高山本城(地頭館より巳午方、凡一里。)

   新留村にあり。即ち此邊を本城と呼ぶ、一名山之城、當昔肝属氏累代の居城なり。

  肝属氏系譜等を按ずるに、其先天智天皇に出づ。冷泉天皇の朝、安和元年、天智天皇

  の皇太子大友皇子より九世の孫、從五位上河内守兼行、薩州に封ぜられ、翌二年、

  州に就き、鹿児島神食に館所を建て、住す。本府伴氏館所是なり。彼絛に参考すべし。

  十一世薩摩守兼貞に至り、後一条天皇の長元九年九月、隅州肝属(肝属は、大隅國の

  郡名にて、當邑及び内之浦、串良、鹿屋、大姶良、姶良、高隈、百引、新城、花岡等、

  此に隷けり。)を賜りて當邑に移り、(當邑高崇寺の傳に、兼行肝属を領じ、永観三年、

  創建せしと云。佛寺の絛に記せり。是に由て観れば、既に兼行の時、肝属を遥領したる

  歟。)日州三俣院(高城、勝岡、山之口等なり。)を併せ領ず。(三俣院を領ぜる起源、

  都城島津御荘の絛に説あり。)十二世大隅守兼俊、肝属を以て氏とし、當城其世々の

  治所たり。

○伴兼貞について、もう少し、詳細な史料が欲しいところであるが、「三国名勝図会」が載せるところは、おおよそ、上記の如くである。したがって、伴兼貞に関する史料は極めて少ないとするしかない。しかし、十一世紀の人物で、これだけの史料が残っているだけでも、有り難いことである。

○この後、伴兼貞の子孫は、肝属氏や萩原氏、安楽氏、和泉氏、梅北氏として、戦国の世を大いに賑わせることとなる。そういう意味でも、伴兼貞は大いに気になる人物である。