平大監季基 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○前回、曽於市末吉町南之郷橋野にある『平季基墓』について書いた。ただ、平季基が如何なる人物であるかを、もう少し説明補足する必要がある。「三国名勝図会」、巻之三十六、大隅國曽於郡舊跡、橋野項目の最後に、

  季基が事は、都城の巻島津御荘の絛に詳なり、

と記しているから、「三国名勝図会」巻之五十八、日向國諸縣郡舊跡之一、島津御荘項目を見ると、平季基について、次のように述べている。

      島津御荘

   島津は、往古日向國諸縣郡の地名なり。御荘は萬壽年月、近衛氏の荘園となる。

  近衛氏此地の荘衙を置く。世を経て荘園漸く増し、殊に広まり、殆んど薩隅日の三州

  に遍し。島津御荘を三州の総称とす。既にして邦家始祖得佛公、其封に就き、鎌倉右

  幕府、島津の姓氏を賜ふも、此に出づといふ。島津御荘の本藩に於る、實に封土の

  根本なり。(中略)

   其後、後一条帝の時に到て、尚膂肉の風を餘し、水俣、島津の如き、地曠く野荒て、

  いまだ開墾せざる處多し。是時に當て、宇治関白近衛藤公頼道、父道長に継て、

  後一条帝に摂政す。天下の政柄己より出て、威権世に振ふ。朝野敬重して、宇治関白

  と呼び、或は一所と称ず。此時平季基(季基、一に末基に作る、)といふ人あり。大監と

  なりて、任に筑前大宰府に居れり。因て平大監と称せり。(凡大臣以下、諸公卿は、

  給官あり。各請て是に任ず。太宰小監の如きも此類なり。季基の大監に任ずるも、蓋

  頼道請て任ずるなり、)薩隅日は、大宰府の管下なり。萬壽の初め、季基及び其弟平

  判官良宗と共に、所部を巡視して、此地に抵り、季基は、水俣院に荒土を開き、墾田

  若干頃を得て、館を益貫に建て居り、良宗も亦隅州姶良に草野を拓きて住す。蓋季基

  墾田を以て、宇治関白近衛藤公頼道に上る。於是宇治殿、荘衙を島津に置く。此後

  近衛氏世々領家たり。故に宇治関白は、島津荘領家の始祖なり。(島津御荘官上疏に、

  島津本庄者、萬壽年、以無主荒野之地令開発、庄號令寄進宇治関白家云々、又鹿屋

  玄兼自記、得丸氏古系圖、梅北氏神柱由緒記、都城諸記録等に、平大監季基が事見

  えたり。荒野を開墾して、宇治関白家の上りしは、季基なること明なり。又宇治関白とは、

  愚管抄、續古事談、大系圖等に、宇治殿頼道を宇治関白と称ずること見ゆ。且宇治殿

  一所の御領を載すること甚多く、荘園諸國に盈と見ゑたるに符号せり。凡荘官上疏の内、

  近衛氏所領、島津御荘、種々殊特の由緒を記すこと、甚詳なり。愚管抄は、頼道の孫、

  慈鎮和尚の著述なり。)長元年中、其地に伊勢大神宮、宇佐八幡以下五社を建て、鎮守

  とし、常樂寺、(横市村に、常樂寺跡あり。)及び祈願の寺院許多を建つ。特に公田若干を

  供料免田として附らる。其伊勢宮は、神託に依り、建て神柱宮と號し、闔荘尤敬重す。

  季基其祀事を掌れり。此神柱社は、即今梅北村益貫にある者是なり。(荘官上疏に、

  伊勢宮、宇佐八幡已下五社とあれども、今現存する者は、蓋神柱宮と宇佐宮なり。或は

  貴船社も其一なる歟。其外詳ならず。梅北氏が舊記には、季基が六歳の女子と、伊勢國

  七歳の男子と、共に同時に伊勢宮の託宣ありて、我を庄内益貫に祀り、神柱と称すべしと。

  因て季基伊勢宮を祀るといへり。神柱社絛下に詳也。神柱宮棟札に萬壽三年、大願主

  平大監末基とあり。季基が弟良宗、荘を姶良に開く也。亦八幡社を彼地に建つ。即彼社

  古鏡の背に、長久四年、平判官と記し、加ふるに花押を以てす。得丸氏が古系圖に、平

  判官とあるは、良宗たること明也。又彼社文明十二年、肝属兼連重建の梁文にも、長久

  四年、建立と記す。)且荘號は、島津御荘と称す。後に至ては、島津本荘、島津一圓荘、

  島津御荘寄郡等の名あり。其荘號に、島津を被らするは、蓋荘衙の所在、島津の地に

  係ればなり。(中略)

   季基は、三俣院を領し、益貫に居る。(鹿屋玄兼自記に、季基は、三俣の主とあり。今

  中之郷南郷に接して、三俣院あり。往古梅北は、三俣院に隷く。今益貫は、梅北の内

  なり。)女子一人ありて男子なし。伴兼貞、(兼貞の事は、高山本城に見ゆ。)鵜戸権現に

  参詣せんと欲し、益貫に過ぐ。季基禮待して是を留ること一两月に及ぶ。遂に女子を配し

  三俣を譲る。季基宅を箸野に営て退老す。(箸野は、庄内南郷中裏村にありて、今末吉

  地頭の管下に属す。末吉の巻に詳なり。)兼貞益貫に卒す。

○長々と、「三国名勝図会」巻之五十八、日向國諸縣郡舊跡之一、島津御荘項目を引用したが、何よりも、この「三国名勝図会」の島津御荘項目が平太監季基に関して詳しいし、丁寧だと判断したからである。島津御荘を開き、それを藤原頼道に寄進した経緯がよく描かれている。

○実は、当古代文化研究所が存在するのも、三俣院の内である。したがって、この話は地元そのものだから、手に取るようによく理解できる。十一世紀当時のこの辺りの様子が判って楽しい。

○また、その後、三俣院は島津氏や肝属氏、伊東氏などとともに、在地の氏族等が関係して、戦乱の地へと変容していく。

○もう一つ、忘れてならないのは、季基開拓の前にも、ここには有力な一族が存在した。それが諸県氏である。その時代は、応神・仁徳の御代になる。