○「上甑村郷土誌」、第四編村の民俗、第八章信仰、第一節神社に関連して、ブログ『上甑村郷土誌:甑島神社』、『上甑村郷土誌:蛭子神社』、『上甑村郷土誌:三島神社』と続けている。今回は、引き続き『上甑村郷土誌:金峯神社』に言及してみたい。
○「上甑村郷土誌」が載せる金峯神社項目は、次の通りである。
金峯神社
江石字塩巻。祭神、金峰彦命。祭日旧九月九日。江戸時代には蔵王三所権現と
称していた。これは修験道(山伏)の神様で、明治初年修験道が禁止されたばかり
でなく、元来蔵王権現は蔵王菩薩という仏様の名前であったから、名前を金峰神社
と改称したものであろう。田布施の金峰山にも蔵王権現を祭っていたが、明治初年
金峰神社と改称した。
○また、「上甑村郷土誌」、第十二編村の教育・宗教、第二章宗教、第一節神社に、江石の金峯神社の項目が存在し、次のように載せる。
江石
金峯神社 (「第四編 村の民俗」参考)
明治四年時の彰延より一層尊崇する様命ぜられたのを役人が其の旨を誤って、
神体を焼失しようとした、部落民は大いに驚き、偽物を以て神体と称して、平良に
真の神体をかくした。後になって之を返し、祭ろうとしてたまたま平良と紛争が起り、
明治一九年に至って遂に事情が明らかになり、現在の通り祭る様になった。これは
その時の文書である。
請合証
御島神社
右御島神社之儀ハ、明治四年貴村ニ合社相成居候ニ付、
今般江石村ニ御坐相成候様致度旨相談致候処、御上ニ於テ
差支之御遷坐相成候テモ不苦段御協議相成候、就テハ後日
ニ於テ御上ヨリ差支之事故出来候節ハ、萬事ニ迷惑不相成様
私方引請可申候依請合証如件
明治十九年十月二十九日
江石村人民総代
拾九番戸 東 儀右ヱ門
浜返正右ヱ門
大園源衛
祠官 植村平作
平良村人民世話人
白石与八殿
成尾伊平殿
○上記には、
明治四年時の彰延より一層尊崇する様命ぜられたのを役人が其の旨を誤って、
神体を焼失しようとした、
とあるけれども、実際は、そうではあるまい。廃仏毀釈で、蔵王三所権現が破壊の憂き目に遭おうとした際、知恵者が居て、上記のような判断を下したものと思われる。それが御上にも甑島の人々にも、両方に都合の良いことであった。
○現在、日本では、修験道の起源は吉野山にあるとされる。そのことは、ウイキペディアフリー百科事典が案内する修験道で、次のように確認される。
修験道
修験道(しゅげんどう)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことで悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰。仏教に取り入れられた日本独特の宗教でもある。修験宗ともいう。修験道の実践者を修験者または山伏という。
修験道は、飛鳥時代に役小角(役行者)が創始したとされるが、役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている。
○しかし、修験道の歴史は古い。役小角は七世紀の人物であるが、修験道はそれよりも遥かに古いと思われる。当古代文化研究所では、長年、そうした、日本仏教の起源を追い続けている。もちろん、吉野山には何度も訪れ、検証済みである。
○ただ、それを説明することは相当な時間とスペースを要する。したがって、次のブログを参照していただくしかない。
・テーマ「吉野山の正体」:40個のブログ
・テーマ「吉野紀行」:28個のブログ
・テーマ「奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)」:33個のブログ
奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)|古代文化研究所 (ameblo.jp)
○結果、修験道を含めて、日本仏教の起源は三世紀まで遡ることができる。その日本仏教発祥の地は鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島だとするしかない。このことについても、膨大な検証が必要なことは言うまでも無い。
○そのことについても、当古代文化研究所では、多くの時間と労力を費やして来ている。主なものを幾つか案内するに止めたい。
・テーマ「三島村・薪能「俊寛」」:38個のブログ
三島村・薪能「俊寛」|古代文化研究所 (ameblo.jp)
テーマ「硫黄島」:42個のブログ
・テーマ「三島村秘史」:30個のブログ
○この話は、極めて重要なものである。したがって、もっと多くのものを書いているのだが、ここでは略すしかない。結論として、日本仏教の起源が硫黄島であることに変わりは無い。
○前回の、ブログ、『上甑村郷土誌:三島神社』や今回の『上甑村郷土誌:金峯神社』で判るように、甑島に三島神社や金峯神社が鎮座ましますのは、決して偶然では無い。硫黄島から甑島は、極めて近い。当然、硫黄島の仏教がそのまま甑島へと流れて来ていることは間違いない。
○そういうことを検証できるのが甑島であり、「上甑村郷土誌」なのである。なかなか「上甑村郷土誌」に学ぶことは多い。