邪馬台国サミット2021:神代三山陵の先坣僑位 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○前々回、ブログ『邪馬台国サミット2021:天皇家の故郷』で、真実の神代三山陵が次のようになることを案内した。これは当古代文化研究所が発見したものである。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○しかし、現在、宮内庁が神代三山陵として管轄しているのは、次のものである。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○どちらが本物の神代三山陵か。何しろ、話は神代のことである。二十一世紀の現代に於いて、それを証明することは不可能に近い。どう考えても無理がある。誰もがそう考える。

○しかし、世の中、捨てたものでも無い。ある時、「日本書紀」を読んでいて、本物の神代三山陵を判断する材料が出現して、驚いた。それが神代三山陵の先坣僑位である。

○ただ、この話はどうしても前置きが長くなる。それを覚悟の上で話と次のようになる。最初は、どうしても先坣僑位と言う言葉の説明になる。先坣僑位と言う言葉を御存知の方は少ないのではないか。昔、故郷を離れた人が先祖を祀るのに、他所の土地に作った先祖を祀るお墓が先坣僑位になる。

○次に神代三山陵の先坣僑位を発見した話になる。これもまた先が長い。最初は「日本書紀」持統紀を読んでいて、吉野御幸が気になった。持統天皇は、九年間のあいだに、三十回以上も吉野御幸をしている。これは尋常な数字ではない。何が持統天皇を吉野へ呼んだのだろうか。

○その研究成果がテーマ「吉野山の正体」として結実している。話が長くなるので、次のブログを読んでいただくしかない。

  ・テーマ「吉野山の正体」:40個のブログ

  吉野山の正体|古代文化研究所 (ameblo.jp)

○話を続ける上で、結果だけを案内すると、持統天皇の吉野御幸は、祖霊信仰に基づくものであることが判る。つまり、持統天皇は先祖を斎き祀るために吉野御幸を繰り返していたことが判った。もちろん。そんことも、当古代文化研究所の研究成果であることは言うまでもない。

○そうなると、吉野山が何者かと言うことになる。吉野山は、実は可愛山陵の先坣僑位なのである。それが吉野山の正体だと言うことである。その証拠に、吉野山の聖人は役の行者小角と申し上げる。

○吉野山では役の行者小角を修験道の開祖として斎き祀っている。ところが、何故、彼を役の行者と呼ぶのか。誰も説明しない。これは極めて不思議な話である。

○役の行者小角が吉野山で修行していたから、人々は彼を敬して役の行者小角と呼んだに過ぎない。「役」が意味するものが吉野山なのである。畢竟、役の行者小角とは「吉野山の小角」と言うに過ぎない。

○何故なら、吉野山が可愛山陵だからである。可愛山陵を「えのやま」と呼ぶ。それに字を当てると「吉野山」となる。「吉」は「え」と読む。つまり、吉野山は可愛山陵の先坣僑位であって、彦火瓊々杵尊を祀るところであることが判る。だから持統天皇は吉野御幸を繰り返していたのである。

○そう考えると、神代三山陵の先坣僑位が大和国に存在するのではないか。どうしてもそういう結論に達する。それで大和国探索が始まった。

○もっとも、厳密には大和国ではない。高屋山陵の先坣僑位は、すぐに見付かった。何故なら、吉野山から近い聖地を探せば、誰でも、すぐに高野山を思い浮かべる。この高野山が高屋山陵の先坣僑位であることが判る。

○問題は、吾平山陵である。吉野山周辺を幾ら探しても、吾平山陵の先坣僑位になるようなところは発見できなかった。神代三山陵の先坣僑位そのものが私の妄想だったと思ったくらいである。

○その間も、鹿児島県内にある神代三山陵を訪れ続けていた。上記したように、可愛山陵は薩摩川内市、高屋山陵は霧島市、吾平山陵は鹿屋市に存在する。大変離れているので、それらを回るのも往生する。それが現在の神代三山陵比定地なのである。

○ある時、地名ではなくて、吾平山陵の様子を聖地にしたところが吉野山周辺に存在しないかと言うことに気付いた。それが大発見に繋がった。それが熊野本宮なのである。熊野本宮大社こそが吾平山陵の先坣僑位であることを理解して、始めて、神代三山陵の先坣僑位を発見することができたわけである。

○恐ろしいことに、神代三山陵の先坣僑位、

  吉野山

  高野山

  熊野本宮

が教えてくれるのが、真実の神代三山陵比定地だと言うことである。何故なら、神代三山陵の先坣僑位は真実の神代三山陵をもとに形成されたものだからである。当然、その位置関係とか、姿形は真実の神代三山陵をなぞっているはずである。そうであれば、自然と、真実の神代三山陵比定地が見えて来る。

◎結果、それが当古代文化研究所が発見した神代三山陵比定地だと言うことが判る。二十一世紀の現代に於いて、神代の神代三山陵比定地を証明できた。それが神代三山陵の先坣僑位なのである。なかなか、神代三山陵は凄いし、古代人の知恵には恐れ入る。私たちが思っている以上に、古代の人々の文化は豊かだし、崇高である。人間は時代とともに劣化しているのかも知れない。その証拠に、いまどき、祖霊信仰に言及する人など、ほどんど居ない。

◎掲載した写真は、2021年正月8日、昨日撮ったばかりの新鮮なものである。可愛山陵と高屋山陵へお参りしてきた。吾平山陵へは、後日、参拝したい。