大和地名について | 古代文化研究所

古代文化研究所

古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○大和と言えば、誰もが奈良県だと思っている。その大和地名も、当然、奈良県のものだと勘違いしている。意外と、大和地名の根は深い。今回はそういう話になる。

○これから、ブログ「甑島周遊の旅」のことを書こうとするのに、『大和地名について』では、話が違うだろうと思われるかも知れない。しかし、当古代文化研究所が大和地名を追い続けた結果、辿り着いたのが甑島なのである。今回、当古代文化研究所が甑島を訪問した理由もそこにある。

○したがって、ブログ「甑島周遊の旅」の話をする前に、そのことを明らかにしておきたい。そういう意味で、甑島はなかなか面白い島であることが判る。

○最初に、大和地名が現在、どのように認識されてるか。それを見ておきたい。ウイキペディアフリー百科事典が案内する大和地名は、次の通り。

      大和

大和(やまと)は、日本の古称・雅称。日本とも表記して「やまと」と訓ずることもある。大和・大倭大日本(おおやまと)とも呼ばれる。

ヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)に在ったことに由来する。初めは「倭」と書いたが、元明天皇の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた。

元々はヤマト王権の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。その後、ヤマト王権が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。そして、ヤマト王権の本拠が所在した奈良盆地周辺を範囲とする令制国を大和国とした。さらには、同王権の支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。こうして日本列島、つまり日本国の別名として大和が使用されるようになった。

  大和 - Wikipedia

○おおよそ、こういうところが、現在の大和地名の認識のあらましではないか。

  ヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)に在ったことに由来する。

とあるように、誰もが大和地名の起源を奈良県に求めようとする。かの本居宣長にしたところで、大和国に大和地名起源を求めて、悪戦苦闘している。そのことは彼の「国号考」を読むとよく分かる。

○しかし、幾ら本居宣長をしても奈良県の何処を探したところで、大和地名の起源は発見できない。何故なら、大和地名は日向国のものだからである。そういう肝心なことに誰も気付かない。

○当古代文化研究所では、長年に亘り、大和地名を追及して来ている。結果、どう考えても、大和地名は日向国のものとするしかない。つまり、日向国から奈良県へ勧請された地名が大和地名なのである。

○そのことは、幾らでも証明することができる。最も簡単なのは大和三山だろう。大和三山は大和国名を冠せられた地名である。これ程、大和を代表する地名は無い。大和三山とは、奈良県橿原市に存在する次の山々を指す。

  ・畝傍山(199m)

  ・香具山(152m)

  ・耳成山(140m)

○当古代文化研究所では、これまで、大和三山を7回訪れ、実際、登って、確認している。そうして判ったことだが、奈良県橿原市の大和三山は本物ではない。あれはレプリカに過ぎない。本物の大和三山は日向国に存在する次の山々である。

  ・うねびやま=霧島山(1700m)

  ・かぐやま=桜島山(1111m)

  ・みみなしやま=開聞岳(924m)

○もちろん、これには相応の検証が必要であることは言うまでもない。当古代文化研究所では、すでに30年以上掛けて、そのことを検証している。第一、大和国名を冠せられた山が標高200mにも満たない小山であるはずがない。そんなことは、誰が考えても判ることである。

○大和三山については、次のブログを参照されたい。

  ・テーマ「大和三山」:122個のブログ

  大和三山|古代文化研究所 (ameblo.jp)

○本物の大和三山を、当古代文化研究所では、邪馬台国三山と命名して区別している。その邪馬台国三山については、次のブログを参照されたい。

  ・テーマ「邪馬台国三山」:54個のブログ

  邪馬台国三山|古代文化研究所 (ameblo.jp)

○お判りのように、大和地名は、どう考えても日向国のものである。それを裏付ける一例が甑島なのである。誰もそういうことをおっしゃらない。それは甑島を御存知無いからに過ぎない。

○そういう意味で、今回の「甑島周遊の旅」は、大きな意義がある。何とも大層な話だが、そういうつもりで甑島を目指した。